第94回:夢と革新のロータリーエンジン
マツダが磨き上げた孤高の技術
2021.02.17
自動車ヒストリー
ハウジングの中で“おむすび型”のローターが回転し、動力を発生するロータリーエンジン。理想のエンジンともいわれたこのパワーユニットを、苦闘の末に実用化したのがマツダだった。今なお続けられる開発の歴史を、あまたのエピソードとともに振り返る。
回転運動の中で完結するエンジン
常に効率を求め、シンプルを旨とするのがエンジニアの習性であり、それに従うと往復運動と回転運動が共存するレシプロエンジンは、許容し難いカオスということになる。しかし、カール・ベンツが初めて実用化したガソリン自動車はレシプロエンジンだった。先行する蒸気機関がシリンダーとピストンの組み合わせだったのを踏襲したのだ。ガソリンエンジンはこのつくりを大きく変更することなく発展していき、ディーゼルエンジンも同じ形式となった。
回転運動の中ですべてを完結させようという試みは、幾度となく繰り返されてきた。イタリアのラメリーがロータリーピストン式の揚水ポンプを発明したのは、1588年のことである。1782年には、ワットがロータリー蒸気機関を考案するが、完成させることはできなかった。20世紀に入ってもさまざまな挑戦があったが、いずれも成功には至っていない。本当の意味で実用的なロータリーエンジン車が誕生したのは1967年のこと。「マツダ・コスモスポーツ」である。
新世代のロータリーエンジンを考案したのは、ドイツのフェリックス・ヴァンケル技師である。ヴァンケルはオートバイメーカーのNSUと共同でロータリーエンジンの研究を進め、1957年にDKM型を試作した。これはロータリーハウジング自体が回転するという複雑な機構で、実用化が困難なものだったといわれる。翌年、ハウジングが固定されたKKM型を完成させ、トルコロイド型のハウジングに三角おむすび型のローターを組み合わせたロータリーエンジンの原型が誕生した。
もともと自動車会社だったNSUは、1957年に「プリンツ」で四輪自動車の製造に復帰するものの、まだまだ会社の規模は小さかった。この技術を自社だけで開発するのはリスクが大きいと判断し、ライセンス事業を展開する戦略をとる。1960年1月にミュンヘンで大々的な発表会を開催し、革命的なエンジンの開発成功をアピール。世界中の自動車会社から強い関心を集めた。
知らされなかった“チャターマーク”
日本にもこの情報は伝えられ、マツダが真っ先に手を挙げた。トヨタや日産も興味を示したが、ライセンス獲得に動くことはなかった。すでにレシプロエンジン車の生産・販売で実績を伸ばしていた両社が素性の知れない新技術に飛びつく必要はないからだ。
当時はまだ東洋工業という車名だったマツダには、切迫した事情があった。生き残るために、新たな取り組みが求められていたのである。三輪トラックの製造で発展して広島の中核企業となっていたが、急激な経済成長で需要は四輪トラックや乗用車に移りつつあった。1960年に「R360」で乗用車市場への参入を果たしたものの、基盤を固めていたとはいえない。当時の通産省は過当競争を防ぐために新規参入を制限する構えをとっており、マツダは危機感を募らせていた。
池田勇人首相の力添えもあって交渉権を獲得し、松田恒次社長自らを団長とした調査団がドイツに渡る。ロータリーエンジンを搭載したプリンツに試乗すると、振動の少なさと卓越した加速性能を体感。すぐにでも実用化できるとの確信を得た。技術提携のライセンス料は巨額で、輸出先が制限されるなどマツダにとって不利な契約だったが、それでもマツダはこのエンジンに会社の将来を託したのだ。
NSUから400ccのロータリーエンジンが届き、ベンチで試験運転を開始。9000rpmという高回転から48.8馬力ものパワーを生み出すことがテストで証明され、エンジニアは歓喜に沸いた。しかし、その喜びは短時間で暗転する。順調に回っていたエンジンが、突然停止してしまったのだ。分解してみると、ローターの頂点に装着されたシールが破損していた。ローターハウジングの内面には、“チャターマーク”と呼ばれる無数の引っかき傷が刻まれていたのである。
驚いてNSUに問い合わせると、この症状は以前から頻発しているという回答があった。ドイツで試乗したクルマは快調だったが、それはシール破損が起きる前だったからなのだ。耐久性はまったく確保されていない。契約前には知らされていなかった事実である。
ライセンシーからトップランナーへ
致命的な欠陥が明らかになり、ロータリーエンジンへの関心は急速に薄れていった。しかし、マツダは撤退するにはこの技術に多くを注ぎ込み過ぎていたのだ。1963年に「ロータリーエンジン研究部」が設置され、問題解決に全力を尽くすことになる。後に社長となる山本健一をトップとした47人の精鋭が集い、“四十七士”と呼ばれることになった。
まずは、チャターマークとの戦いが最優先である。“悪魔の爪痕”と恐れられたローターハウジング内面の波状摩耗をなんとかしなければならない。実験の結果、ローターの頂点に装着されたアペックスシールの共振が原因であることが判明する。シールの材料にさまざまな素材を試し、この現象を抑え込む方法を探った。鋳鉄製からクローム、牛の骨まで100種類以上の素材でテスト。シールの形状も工夫され、内部に交差した穴を開ける“クロスホロー”タイプが有効であることがわかってきた。アルミニウムを染み込ませた高強度カーボンシールでチャターマークの発生を根絶したのは、3年後の1966年である。
ほかにも問題は山積していた。オイル消費が多く、排気管からは大量の白煙が上がる。低回転時にはエンジンがスムーズに回らない。燃焼室での火炎の伝播(でんぱ)に時間がかかり過ぎる。それらの問題を一つひとつ解決して誕生したのが、マツダ独自のロータリーエンジンである。2ローターでサイドポート吸気、ハウジングには2本の点火プラグがあり、4バレルキャブレターを採用した。はじめはただのライセンシーメーカーだったが、マツダはロータリーエンジンの実用化を主導するトップランナーになっていた。
コスモスポーツが発売されたのは、1967年5月である。それに先立ち、ドイツでは「NSUスパイダー」が1964年に世に出ており、「Ro80」も発売されていた。ただ、どちらも耐久性の問題を完全には解決できておらず、短期間で市場から退場している。量産化に成功したとは言い難かった。
環境対応へのたゆみない努力
マツダはその後「ファミリア ロータリークーペ」「ルーチェ ロータリー」と立て続けにニューモデルを発表し、“ロータリゼーション”と称してロータリーエンジン搭載モデルのラインナップを増やしていく。エンジニアの夢である“回転運動の中で完結する”エンジンを搭載したクルマを販売する唯一の自動車メーカーになったのだ。
輝かしい成功を手に入れたが、マツダはその後も試練の道を歩んだ。1970年代に入ると排ガス問題が注目され、炭化水素の排出軽減が大きな課題となった。さらに石油ショックで燃費の悪さがクローズアップされ、好調だったアメリカでの販売が急降下。しかし再びマツダは困難な課題に挑み、「サバンナRX-7」の成功で喝采を浴びる。
1991年にはR26B型4ローターロータリーエンジンを搭載した「787B」がルマン24時間レースで総合優勝を果たす。モータースポーツで実力を証明したものの、その後はまた燃費や排ガスの課題に苦しめられることになった。2003年に発売された「RX-8」が2013年に生産終了になり、それ以来ロータリーエンジン搭載の市販車は途絶えたままだ。
環境対応の新世代ロータリーエンジンを開発する努力は続けられ、2009年には世界初のハイブリッドシステム搭載水素ロータリーエンジン車「プレマシー ハイドロジェンREハイブリッド」のリース販売が開始された。2015年の東京モーターショーにはロータリーエンジンを搭載するFRスポーツカーのコンセプトモデル「RX-VISION」が展示され、観客から喝采を浴びる。
マツダ初の電気自動車(EV)「MX-30 EVモデル」では、新しい役割が与えられることになる。ロータリーエンジンのレンジエクステンダーを備えたモデルが追加されることが発表されたのだ。軽量・コンパクトで静粛性の高いロータリーエンジンは、EVとの相性がいいといわれている。マツダが守った孤高の技術は、次世代のモビリティーにも受け継がれていく。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。