第9回:オートモ号の真実
失敗と挫折から始まった日本自動車産業
2017.10.19
自動車ヒストリー
今でこそ世界規模のメーカーが名を連ねている日本の自動車産業界だが、その黎明(れいめい)期は失敗と挫折の繰り返しだった。日本人の手による自動車製造を志した山羽虎夫や内山駒之助、豊川順彌らの挑戦を、数々のエピソードとともに振り返る。
見よう見まねで蒸気自動車を製造
カール・ベンツがガソリン自動車の特許を取得した1886年は、明治19年にあたる。日本では鹿鳴館(ろくめいかん)で毎夜舞踏会が開かれていた。西洋列強に対して、文明国であることを必死にアピールしなければならなかった時代である。前年には初の内閣が成立し、伊藤博文が初代総理大臣に就任。東京では品川-赤羽間に鉄道が開通し、現在の山手線の原型ができた。憲法が発布されるのは3年後で、総選挙が行われるのはその翌年である。街での主な移動手段は人力車だった。
日本はまだアジアの小国にすぎず、工業といえばようやく繊維業が発展しつつあった程度である。自動車工業が生まれるのははるかに先の話だが、クルマが初上陸したのは意外に早い。1898年、フランス人のテブネが「パナール・エ・ルヴァソール」を持ち込んでいる。オートバイはもっと早く、十文字信介が1896年にドイツの「ヒルデブラント・ウント・ヴォルフミュラー号」を輸入している。
1903年、大阪で開かれた内国勧業博覧会に2台の自動車が出品された。「ハンバー」を持ち込んだジョージ・アンドリュース商会はデモ走行を披露し、観客から喝采を浴びた。岡山から来た実業家の楠健太郎と森 房造もその中にいた。商売になると考えた彼らは購入を考えるが、提示された価格は8000円だった。巡査の初任給が8円の時代で、とても支払える金額ではない。彼らは、自分たちで自動車を造ろうと決意する。
岡山に帰ると、電機工場を営んでいた山羽虎夫に自動車製造を依頼する。自動車など見たこともなかった山羽は、神戸で商社に勤める兄のもとを訪ねた。そこにあった蒸気自動車を観察し、見よう見まねで製作を開始する。わずか半年で蒸気エンジンを作り上げたのは驚異的で、1904年5月には試運転にこぎつけた。シャシーとボディーはケヤキ材で、2気筒25馬力の蒸気エンジンを搭載した、10人乗りのバスだった。
国産初のガソリン自動車はタクリー号
エンジンは快調で10km/h以上のスピードで走行したが、思わぬトラブルが発生した。タイヤが変形して走行不能になってしまったのである。空気入りのタイヤを製造できる工場はなく、ゴムを固めただけのソリッドタイヤを鉄板製のリムにボルト留めしていたのだから無理もない。国産車第1号は、量産化されることなく姿を消した。
こうして、日本人による初の国産自動車製造のエピソードは幕を閉じるのだが、これと前後する形で、また違う人物が自動車産業への挑戦を始めていた。
1902年、自転車輸入を手がけていた双輪商会の社長吉田信太郎が仕入れのために渡米する。彼はニューヨークで行われていた第3回モーターショーに立ち寄り、日本にも近い将来自動車の時代がやってくると確信した。エンジンやトランスミッションなどの部品を購入して帰国し、オートモービル商会を設立してオートバイや自動車の輸入に乗り出す。ウラジオストックで自動車技術を学んでいた内山駒之助も合流し、自動車の製造を目指すことになった。
アメリカから持ち帰った部品を使い、内山は2台の自動車を製造する。自信を得た彼は、国産の部品でガソリン自動車を造ることを望んだ。そこに自動車好きで知られる有栖川宮威仁親王から開発を依頼される。機は熟したのだ。内山は1906年初頭から開発に着手し、1年以上かけて「国産吉田式自動車」を作り上げた。手本にしたのは、有栖川宮家が所有していた「ダラック」である。最高速度は16km/hで、ガタクリガタクリとのどかに走ったことから、「タクリー号」という愛称が付けられた。
エンジンは1837ccの水平対向2気筒で、出力は12馬力だった。模倣の域を出なかったものの、初めて日本人が自力で製造したガソリン自動車である。1号車は有栖川宮家に納入され、その後計10台が製作された。中には、トラックに仕立てたものもあったようだ。タクリー号が走ったのは1907年で、その翌年にはフォードが「T型」の生産を開始している。日本で自動車製造の方法を模索していた頃、アメリカではすでに大量生産の時代に入ろうとしていた。
改進社、白揚社が自動車製造に挑戦
その後も続々と自動車の製造に挑む者が現れたが、いずれも苦戦を強いられる。日本には金属や電気機器、さらにはガラスやタイヤなどの基礎的な工業力が育っていなかったからだ。1911年になると、ようやく資本力の後ろ盾を得た自動車製造への動きが始まる。アメリカで機械工学を学んだ橋本増次郎が、東京・麻布に「快進社自動車工場」を設立したのだ。実業家の田健治郎、青山祿郎、竹内明太郎が経営に参加し、豊富な資金を得て開発を進めた。
快進社は、1914年の東京大正博覧会にV型2気筒エンジンを搭載する「脱兎号(DAT Car)」を出品する。DATとは、出資者3人のイニシャルを組み合わせた名称だ。快進社は「ダット自動車製造」に発展し、合併や改組の後に「日産自動車」となった。
これらの動きとは別に、乗用車の生産を目指していたのが豊川順彌である。三菱の創業者岩崎弥太郎のいとこである豊川良平の長男として生まれた彼は、幼い頃から陸軍工廠(こうしょう)や造船所を見て歩いたほどの機械好きだった。1912年、豊川は「白楊社」を設立して旋盤の製作などを始める。転機となったのは、1915年のアメリカ留学だった。機械工学を学ぶうちに自動車の魅力に取りつかれ、帰国して自動車製造を志した。
1921年、彼は2台の試作車「アレス号」を完成させる。1台は水冷1610ccエンジン、もう1台は空冷780ccエンジンを搭載していた。小型車には空冷のほうが向いていると考え、彼は空冷モデルを徹底的に研究してテストを重ねた。1924年には、東京から大阪まで40時間ノンストップの試験走行を成功させている。アレス号は、この年「オートモ号」と改名された。豊川家の祖先である大伴とオートモービルをかけたネーミングである。
初めて輸出された日本車
1925年、東京・洲崎で行われた日本自動車競争倶楽部主催のレースに、オートモ号は唯一の国産車として参戦した。排気量ではるかに上回る外国車を相手に、わずか9馬力のオートモ号は奮戦して予選1位を獲得する。決勝では惜しくも2位に終わったが、3万人の観客から健闘をねぎらう大きな声援が送られたという。ちなみにこの時優勝したのは、アート商会が製作した「カーチス号」である。助手席でライディングメカニックを務めたのは、この会社で修理工として働いていた若き本田宗一郎だった。
手応えを感じた豊川は、オートモ号の本格的生産を開始する。カタログには女優の水谷八重子を起用するという斬新な試みを取り入れていた。約300台が生産され、日本初の量産車と呼ぶにふさわしい実績を残したのだ。特筆すべきなのは、オートモ号が国内で販売されただけでなく、輸出されたという事実である。1925年11月、上海に向けて2台が海を渡った。もちろん日本車としては初めてのことだ。
残念なことに、オートモ号は事業として成功するには至らなかった。日本の乗用車市場はアメリカ車にほぼ独占されていたのだ。1925年にはフォードがT型のノックダウン生産を開始する。その翌年にはゼネラルモーターズが大阪に工場を作って「シボレー」や「ビュイック」の生産を始めた。経験も規模も劣る白楊社に勝ち目はない。性能面でも価格面でも、アメリカ車は圧倒的な競争力を持っていた。
1928年、白楊社は解散を余儀なくされる。それでも、苦心の末にオートモ号を製造したことは、日本の自動車産業にとって大きな資産となった。開発に関わった池永 羆、大野修司、倉田四三郎らは後に豊田自動織機製作所自動車部に結集し、蓄えたノウハウを存分に発揮することになる。山羽虎夫から始まった数々の挫折は、後の成功への糧となった。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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