日産が今の苦しい状況に陥った要因は何か?
2025.03.11 あの多田哲哉のクルマQ&Aホンダと日産の経営統合騒動に関する、当コーナーの記事を読みました。世間でいろいろとネガティブなことを言われている日産ですが、この会社はなぜ、これほど苦しい状況に陥ってしまったのでしょうか。多田さんのご意見をうかがいたいです。
日産の「ホンダとの経営統合話」というのは、同社の経営状態が悪くなったから持ち上がったわけですよね。では業績不振の原因はなにかといえば、“アメリカ事業”の不振に尽きます。
トヨタもホンダも、なんだかんだ言ってアメリカでの利益が事業の柱です。多くの自動車メーカーにとって、アメリカ市場が極めて大事であるというのは共通の事実です。
そんななかで日産は難しい状況に陥っている。「それは、単純に売れるクルマがないからだよ」などと言う声もありますが、それだけでしょうか。あまり知られていないようですが、もっともっと昔から、アメリカでの不振には火種があったといえるのです。
もともと日産には“技術の日産”というイメージがあり、モータースポーツにも黎明(れいめい)期から積極的に取り組んでいました。まず挑戦したラリーでは「ブルーバード1600SSS」や「240Z」が国際的な舞台で活躍しましたね。アメリカ市場についても、日本車のなかでは早く進出を果たし、日本のどんなメーカーにも先駆けて盤石の地盤をつくりました。その一番の功労者が、“Zの父”として知られる米国日産の元社長、片山 豊さんです。
おもしろいことに片山さんは、技術者ではなく販売の方なんですね。米国日産においては、日産というよりもダットサン(DATSUN)ブランドをしっかりと現地に定着させた。それに貢献したのが「Z」であり、Zの販売を担ったのが片山さんでした。
最近イチローがアメリカ野球殿堂入りを果たしましたけれども、クルマの世界でもアメリカにおける“自動車の殿堂”があって、日本人ではまず、ホンダの本田宗一郎さんが殿堂入りしています。トヨタは豊田英二さんでした。日産は誰かというと片山 豊さんなんです。アメリカ人からすると、日産はダットサンであり、片山さんなわけです。
関連書籍もたくさんあるので、自動車ファンの皆さんにはそれらをぜひ読んでいただきたいのですが、片山さんは仕事も極めて優秀なら、部下にも大変慕われていました。米国日産の社長時代、社長室の扉はいつも開け放たれていて、常に現地の人の出入りがあったといいます。退任されてからも、米国日産だけでなく、全米のディーラーから感謝され、また愛されていた人物です。
そんな片山さんを、日本の親分である石原 俊さん(第11代日産自動車社長)は徹底的に嫌ったといわれています。片山さんは日産の創業者である鮎川義介さんと親戚関係にあり、血統としても申し分ないものだから余計に癪(しゃく)にさわったのかもしれません。
それほど会社に貢献した人なのに、ヒラの取締役にすらしなかった。こうした“男の嫉妬”みたいなものはどんな会社にもあって、それ自体は何ら珍しい話ではないのですが、語り伝えられるところでは、このケースは特にひどかったようですね。
で、ここからが肝心なところなのですが――そんな毛嫌いが高じて、石原さんは、アメリカ市場に定着したダットサンブランドをなくすという暴挙に出てしまった。“片山が育てたダットサン”は許せないと、これを消して日産ブランドに統一したわけです。
皆さんご存じのとおり、市場にブランドを定着させるというのは、自動車に限らず莫大(ばくだい)なエネルギーを要することです。そうして根づいた「いいブランド」のイメージをどう生かすかが、販売の生命線なんです。それを男の嫉妬でつぶして、重要な市場であるアメリカにおいて致命的な失敗を招いた。そして、この失敗が今の今まで尾を引いている。
なにせ、あのカルロス・ゴーンもダットサンブランドの重要性には気づいていて、実際にその名を復活させたほどです(関連記事)。しかし、いったんやめたブランドを再開するというのは容易なことではありません。新興国向けの低価格車ブランドとして再出発したものの、2023年に終了しています。
このアメリカにおけるダットサンつぶしからの衰退が、今回の経営統合騒動にまでつながっていると私は思います。日産を語るうえでは、それこそが、もはや修復しようのない問題点になっている。
もし日産がダットサンブランドでアメリカでの事業を進めていたら? 絶対に今のような事態にはなっていないし、トヨタも今ほどアメリカではもうかっていないでしょうね。日産は対等に争い、市場を分かつ存在になったことでしょう。
冒頭に述べた“クルマそのものの良しあし”というのは、ある程度は波のあるもので、そのときにどんなエンジニアが出てくるとか、いろんな要素に左右されます。長い目で見たなら、日産もホンダもトヨタも、技術的にはいいクルマをつくっていることは確かです。
ブランドイメージがどれだけ大事かということ。そしてそれをダメにしてしまった日産の残念な行いについては、読者の皆さんも知っておいていいと思います。
→連載記事リスト「あの多田哲哉のクルマQ&A」

多田 哲哉
1957年生まれの自動車エンジニア。大学卒業後、コンピューターシステム開発のベンチャー企業を立ち上げた後、トヨタ自動車に入社(1987年)。ABSやWRカーのシャシー制御システム開発を経て、「bB」「パッソ」「ラクティス」の初代モデルなどを開発した。2011年には製品企画本部ZRチーフエンジニアに就任。富士重工業(現スバル)との共同開発でFRスポーツカー「86」を、BMWとの共同開発で「GRスープラ」を世に送り出した。トヨタ社内で最高ランクの運転資格を持つなど、ドライビングの腕前でも知られる。2021年1月に退職。