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第19回:中島飛行機の栄光
日本自動車産業の礎となった技術者集団

2018.03.08 自動車ヒストリー あまたの優秀なエンジニアを育て、後の日本の自動車産業に多大な影響を与えたとされる中島飛行機。敗戦によって姿を消した東洋最大の航空機メーカーは、いかにして今日に血脈をつないだのか。スバル、プリンス誕生の経緯とともに振り返る。

戦略爆撃の第1目標となった武蔵製作所

1944年11月24日、マリアナ諸島を飛び立ったアメリカ軍のB29部隊は、ターゲットナンバー90.17-357を目指した。東京都北多摩郡武蔵野町にあった中島飛行機武蔵製作所である。半年ほど前にアメリカ軍はサイパン島を陥落させ、日本を爆撃する基地を築いていた。東京はB29の航続距離の中に収まることになり、それ以降激しい空襲が続くことになる。武蔵製作所は1945年8月8日まで計9回にわたって爆撃され、壊滅的打撃を受けた。爆撃機数は延べ505機に及び、投下された爆弾は2602.5tというすさまじさだった。

中島飛行機が戦略爆撃の目標となったのは、日本の戦力を奪うのに最も効果的だったからだ。第2次世界大戦では、航空機による戦闘の重要性が飛躍的に高まった。制空権を得た側が圧倒的に有利に戦いを進めることができたので、優れた性能を持つ航空機を持つことが不可欠となる。武蔵製作所は戦闘機や爆撃機のエンジンと機体の組み立てを担っており、その生産能力を奪ってしまえば日本の戦力が大幅にダウンすると見込まれていた。日本で1927年から1945年までに生産された3万0578機の戦闘機のうち、半数以上の1万6763機が中島飛行機で作られている。アメリカ軍が爆撃の第1目標にしたのは当然だった。

戦争の時代に生まれて兵器となる航空機を生産したが、中島飛行機がその中で培った技術力は、戦後に平和な産業で大きく花開くことになる。1953年に誕生した富士重工業(2017年にSUBARUに商号変更)は、中島飛行機が離合集散を重ねた末にたどり着いた姿だ。同社の業績は戦後の日本自動車史の中で重要な位置を占め、また水平対向エンジンと四輪駆動を組み合わせたユニークなパワートレインによって世界に知られる存在ともなっている。

プリンス自動車も、中島飛行機の技術者たちが多く参加して誕生した会社である。単独で存在した期間は短かったが、高い技術力によって革新的な名車を生み出した。1957年にデビューした「スカイライン」はその筆頭である。スバルもプリンスも、中島飛行機の哲学を継承してクルマ作りに魂を吹き込んだ。優秀な人材を育てた東洋最大の航空機メーカーの物語は、1人の先覚者の苦闘から始まった。

現在の東京都武蔵野市八幡町から緑町にかけての地域に存在した中島飛行機武蔵野製作所。約5万人の従業員が働いていたという敷地面積56万平方メートルの工場跡地は、今日では公園や集合住宅、高齢者総合センターなどに使われており、また周辺には、工場から延びる鉄道跡を利用した遊歩道も整理されている。
現在の東京都武蔵野市八幡町から緑町にかけての地域に存在した中島飛行機武蔵野製作所。約5万人の従業員が働いていたという敷地面積56万平方メートルの工場跡地は、今日では公園や集合住宅、高齢者総合センターなどに使われており、また周辺には、工場から延びる鉄道跡を利用した遊歩道も整理されている。拡大
1917年に設立された、飛行機研究所を起源とする中島飛行機。三菱や川西、川崎を超える、東洋最大の航空機メーカーだった。
1917年に設立された、飛行機研究所を起源とする中島飛行機。三菱や川西、川崎を超える、東洋最大の航空機メーカーだった。拡大
水平対向エンジンを核とした、左右対称の構造が特徴の「シンメトリカルAWD」。長年にわたり受け継がれてきたスバルの独自技術であり、同社製4WD車の特徴となっている。
水平対向エンジンを核とした、左右対称の構造が特徴の「シンメトリカルAWD」。長年にわたり受け継がれてきたスバルの独自技術であり、同社製4WD車の特徴となっている。拡大
1957年に登場した「プリンス・スカイライン」。セミモノコックのボディーにド・ディオンアクスル式のリアサスペンション、60psの1.5リッターエンジンなど、当時としては非常に先進的なモデルだった。
1957年に登場した「プリンス・スカイライン」。セミモノコックのボディーにド・ディオンアクスル式のリアサスペンション、60psの1.5リッターエンジンなど、当時としては非常に先進的なモデルだった。拡大

軍隊をやめて航空機製造会社を立ち上げる

1884年(明治17年)に群馬県新田郡尾島村(現在の太田市)の農家に生まれたのが、中島知久平である。長男として家業を継ぐ立場だったが、ロシアなどの三国干渉に憤り、軍人になることを決意する。中学への進学を許されなかった彼は16歳になると家出して上京し、3年後に海軍機関学校に入学。優秀な成績で卒業し、晴れて海軍軍人となった。しかし、その時すでに中島の関心は船から飛行機に移っていた。1903年にライト兄弟が初飛行に成功し、その将来性に心を奪われたのである。

当時の飛行機は誕生したばかりで、性能は貧弱なものだった。有用な兵器になると考える者はほとんどいなかったが、中島は早くから飛行機の価値を高く評価し、研究を開始した。海軍大学の選科学生となり、海軍航空術研究委員会に参加。アメリカに渡り、飛行士のライセンスを取得する。その過程で飛行機が必ず国防の主役になるという確信は強まったが、軍隊では飛行機を活用しようという動きがなかなか広まらない。やがて彼は、軍隊にとどまるよりも民間で航空機の事業を立ち上げた方が効率的であると考えるようになった。1917年、中島は海軍を退役し、故郷に飛行機研究所を設立する。

中島はまず機体の製作にとりかかり、失敗を重ねた後にホールスコット120馬力エンジンを搭載した「四型」を作り上げた。ようやく満足のいく仕上がりとなった機体で、その改良型である「五型」でついに118機の量産を果たした。中島飛行機と改称していた飛行機工場は本格的な生産を開始する。1925年には東京に工場を設置し、エンジンの製作も始めた。事業を軌道にのせたところで、中島は政治家に転身する。1930年に衆議院議員に初当選した彼は、後に近衛内閣と東久邇内閣で閣僚を務めることになる。

中島が社長を辞した頃から、国際情勢は不穏な空気を漂わせ始めた。日本では戦闘機の生産を強化するため、軍部が各航空機会社に競争試作を命じる。1932年、中島飛行機の「九一式戦闘機」が陸軍に制式採用された。日中戦争の始まった1937年には、陸軍初となる全金属製低翼単葉型の「九七式戦闘機」も制式機となる。1941年には“隼”の名で知られる「一式戦闘機」が、1944年には“疾風”と呼ばれる「四式戦闘機」が制式採用された。

このように、陸軍の主力戦闘機については中島飛行機が生産を担っていたのに対し、海軍の戦闘機は三菱重工業のものが主流だった。1936年には「九六式艦上戦闘機」が制式採用され、1940年から“零戦”こと「零式艦上戦闘機」が主力戦闘機となった。ただ、その零戦が搭載していたエンジンは中島飛行機製の空冷星形14気筒「栄」である。さらに中島飛行機は機体のライセンス生産も請け負っており、実際のところ、終戦までに生産された1万0425機の零戦のうち、実に6割以上の6545機が中島製だった。

中島飛行機の創業者である中島知久平(1884-1949)。
中島飛行機の創業者である中島知久平(1884-1949)。拡大
「四型」をベースに開発された量産機「五型」の製造の様子。日本の民間会社が開発し、日本人によって設計された飛行機として初めて制式採用された機体であり、陸軍向けの101機を含め、118機が生産された。
「四型」をベースに開発された量産機「五型」の製造の様子。日本の民間会社が開発し、日本人によって設計された飛行機として初めて制式採用された機体であり、陸軍向けの101機を含め、118機が生産された。拡大
中島知久平の故郷である、群馬県太田町(現太田市)に建てられた中島飛行機太田工場。戦後は東京・三鷹工場とともに富士工業の母体となった。
中島知久平の故郷である、群馬県太田町(現太田市)に建てられた中島飛行機太田工場。戦後は東京・三鷹工場とともに富士工業の母体となった。拡大
1925年に稼働した、東京工場の本館の写真。現在の東京都杉並区荻窪に位置していた。
1925年に稼働した、東京工場の本館の写真。現在の東京都杉並区荻窪に位置していた。拡大
航空機用の空冷星形14気筒エンジン「栄」。零式艦上戦闘機や一式戦闘機“隼”など、さまざまな軍用機に搭載された。
航空機用の空冷星形14気筒エンジン「栄」。零式艦上戦闘機や一式戦闘機“隼”など、さまざまな軍用機に搭載された。拡大

自動車製造に転身した技術者たち

戦争が終わると、軍需工場である中島飛行機は生産中止を余儀なくされる。もっとも、B29の爆撃によって工場は破壊しつくされており、生産能力はほとんど失われていた。終戦の翌日には定款を変更して富士産業株式会社と改称。平和産業への転換を模索したわけだが、GHQは4大財閥に準ずるものとして解体命令を下した。

富士産業は12社に分けられ、それぞれに民需転換を図っていく。ただ、GHQは航空機の研究・生産を禁じていたので、他の分野に進出しなければならなかった。戦災を免れた機械を使い、鍋や釜、乳母車などを作って当座の糧としたが、最先端の技術を担っていたエンジニアたちにとって能力を十分に生かせる仕事ではない。太田工場と三鷹工場では、スクーターの製造に乗り出した。残っていた爆撃機「銀河」の尾輪を利用し、135cc単気筒エンジンを載せたモデルを試作。「ラビット」と名付けて量産すると、手軽な乗りものとして人気を博した。

一方、伊勢崎工場が母体となった富士自動車工業では、戦中「誉」エンジンの改造を担当していたエンジニアの百瀬晋六がバスボディーの設計を始めていた。モノコックを採用したリアエンジンバスで、残っていたジュラルミンの薄板にリベットを打って仕上げたものだ。飛行機を作ることはできなかったが、同じ技術を使ってバスを作ったのである。

荻窪工場を母体とする富士精密工業も、自動車事業に活路を見いだした。たま電気自動車から、ガソリンエンジンの製造を依頼されたのだ。戦中、練習機や偵察機に加えて隼の移管生産も請け負っていた立川飛行機の技術者たちは、1947年から電気自動車「たま」を製造していた。燃料事情の悪い中で一定の需要があったが、バッテリー価格の高騰などからガソリン自動車への転換を余儀なくされる。そこでエンジンの製作を担ったのが富士精密工業だった。技術部門を主導したのは、「誉」エンジンの設計主任を務めた中川良一である。

1952年には初のガソリン自動車である「プリンス・セダン」を発売。社名もプリンス自動車に改め、本格的な自動車会社としての歩みを始めた。1954年には車体の生産とエンジンの生産を一にすべく、プリンスと富士精密が合併。1957年に発売されたスカイラインは、セミモノコックボディーに前輪ダブルウイッシュボーン、後輪ド・ディオンアクスルという意欲的な設計が特徴で、1.5リッターエンジンの搭載により最高速度125km/hを誇った。モデルチェンジした2代目モデルは、1964年の第2回日本グランプリで「ポルシェ904」とデッドヒートを繰り広げたことで名高い。プリンス自動車は1966年に日産自動車に合流し、その精神を後に伝えている。

栃木県のスバル研究実験センターにて、「スバル360」とともに展示される「ラビット」。富士工業および富士重工業では、1968年までスクーターの製造が行われた。
栃木県のスバル研究実験センターにて、「スバル360」とともに展示される「ラビット」。富士工業および富士重工業では、1968年までスクーターの製造が行われた。拡大
展示車両のリアに書かれた「DONRYU WORKS」の文字。呑龍工場とは太田工場の別称で、同じ太田に位置する大光院(呑龍さま)にあやかったものだ。
展示車両のリアに書かれた「DONRYU WORKS」の文字。呑龍工場とは太田工場の別称で、同じ太田に位置する大光院(呑龍さま)にあやかったものだ。拡大
エンジニアとして長年にわたり活躍した百瀬晋六(1919-1997)。小型乗用車の試作車「P-1」や軽乗用車「スバル360」、水平対向エンジンを搭載した「スバル1000」など、さまざまなモデルの開発を主導した。
エンジニアとして長年にわたり活躍した百瀬晋六(1919-1997)。小型乗用車の試作車「P-1」や軽乗用車「スバル360」、水平対向エンジンを搭載した「スバル1000」など、さまざまなモデルの開発を主導した。拡大
1947年に登場した「たま電気自動車」。燃料が不足していた時期には活躍したものの、朝鮮戦争のぼっ発による鉛(バッテリーの材料となる)の価格高騰や、燃料統制の解除によってガソリンが手に入りやすくなったことなどから、市場から次第に姿を消していった。
1947年に登場した「たま電気自動車」。燃料が不足していた時期には活躍したものの、朝鮮戦争のぼっ発による鉛(バッテリーの材料となる)の価格高騰や、燃料統制の解除によってガソリンが手に入りやすくなったことなどから、市場から次第に姿を消していった。拡大
たま自動車初のガソリン乗用車となった「プリンス・セダン」(写真は1954年型)。車名の「プリンス」は同年行われた皇太子の立太子の礼にあやかったもので、同年、社名もプリンス自動車に変更された。
たま自動車初のガソリン乗用車となった「プリンス・セダン」(写真は1954年型)。車名の「プリンス」は同年行われた皇太子の立太子の礼にあやかったもので、同年、社名もプリンス自動車に変更された。拡大

占領政策の変更で再合同が実現

1950年に始まった朝鮮戦争を契機に、GHQの占領政策は一変した。財閥解体の動きを緩和し、戦争遂行のために日本の工場を活用する方針をとったのである。1952年にサンフランシスコ講和条約が発行すると、接収していた土地や建物の返還も始まった。

解体されていた中島飛行機の、再合同への機運が高まる。1953年には富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)、宇都宮車輛(宇都宮工場)の5社が出資して、富士重工業株式会社を設立させる。同社は1954年に出資していた5社を吸収し、完全な合同を実現した。スバルのマークとなっている六連星は、この経緯を表したものだ。これと前後して、富士重工は練習機「ビーチクラフトT-34メンター」のライセンス生産を開始。航空機製造への復帰を果たした。

しかし、後に富士重工の柱となったのは自動車事業だった。その端緒となったのは、1952年に富士自動車工業が開始し、合同後にも受け継がれた小型乗用車の研究開発である。バス事業は依然堅調だったが、需要はそのうちに頭打ちになる。そう予測し、大きく伸びる可能性のある分野への進出を考えたのだ。

ボディー造りには軽量化が最優先事項だった戦闘機の製法を応用することができたが、乗り心地や操縦安定性という、飛行機にはなかった項目で苦戦に苦戦する。エンジンは富士精密で作っていた1.5リッターを使うことになっていたが、こちらも方針変更を迫られた。富士精密とプリンス自動車の合併により、エンジン供給が受けられなくなったのだ。

代わりに大宮富士工業で開発していた同じ1.5リッターの「L4型」を採用し、試作車「P-1」が完成する。「スバル1500」と名付けられて市販化目前となっていたが、最終段階で計画は頓挫した。大規模な資本投資が必要な生産化のめどが立たず、スバル1500は“幻の名車”となってしまった。完成車は富士精密製のエンジンを搭載したモデルも含めて20台が作られており、タクシーとして使われたものもある。大学の研究室や自動車会社が集まって開催された“遠乗り会”にも参加し、高い性能が実証された。

P-1の代わりに浮上したのが、軽自動車「K-10」計画だった。バスやP-1と同じく、百瀬が中心となって開発は進められ、1958年に「スバル360」が発売された。フルモノコックの超軽量ボディーには、航空機製造で培われた技術が応用されているといわれる。安価で実用性の高いスバル360は大人気となり、日本のモータリゼーションを推進する役割を担った。中島飛行機の歴史は、日本の自動車産業の礎となったのである。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

デビュー当初の「スバル360」や「サンバー」に採用されていたエンブレム。六連星のマークは、富士重工業誕生にいたるエピソードを表したものだ。
デビュー当初の「スバル360」や「サンバー」に採用されていたエンブレム。六連星のマークは、富士重工業誕生にいたるエピソードを表したものだ。拡大
練習機「ビーチクラフトT-34メンター」のライセンス生産により、航空機事業への復帰を果たした富士重工。今日でも、旅客機や輸送機、対潜哨戒機などの大型部品や、ヘリコプターの製造などを行っている。
練習機「ビーチクラフトT-34メンター」のライセンス生産により、航空機事業への復帰を果たした富士重工。今日でも、旅客機や輸送機、対潜哨戒機などの大型部品や、ヘリコプターの製造などを行っている。拡大
富士精密工業の母体となった中島飛行機東京工場の建屋。エンジン生産にまつわる提携を経て、富士精密工業はともにブリヂストンから出資を受けていたプリンス自動車と合併。富士重工業に“合流”することはなかった。
富士精密工業の母体となった中島飛行機東京工場の建屋。エンジン生産にまつわる提携を経て、富士精密工業はともにブリヂストンから出資を受けていたプリンス自動車と合併。富士重工業に“合流”することはなかった。拡大
小型乗用車の試作である「P-1」。日本初のフルモノコックボディーの採用など、革新的な技術が多数取り入れられたクルマだったが、20台が生産されたのみで市販化には至らなかった。
小型乗用車の試作である「P-1」。日本初のフルモノコックボディーの採用など、革新的な技術が多数取り入れられたクルマだったが、20台が生産されたのみで市販化には至らなかった。拡大
「てんとう虫」の愛称で親しまれた「スバル360」。1958年から1970年までの12年で、累計約39万台が生産され、日本にモータリゼーションを引き起こした。
「てんとう虫」の愛称で親しまれた「スバル360」。1958年から1970年までの12年で、累計約39万台が生産され、日本にモータリゼーションを引き起こした。拡大
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