第46回:GMをつくった2人の男
デュラントが種をまきスローンが育てた巨木
2019.04.04
自動車ヒストリー
長年にわたり、自動車産業のトップに君臨していたアメリカの雄、ゼネラルモーターズ。“豊かなアメリカ”を象徴する巨大メーカーはいかにして誕生し、その地位を得たのか? デュラントとスローン、2人の人物の功績を通し、その歴史を振り返る。
拡大路線を推し進めたデュラント
ゼネラルモーターズ(GM)は2000年代に入った頃から次第に収益が悪化し、ついには債務超過に陥った。2008年のリーマンショックが追い打ちをかけ、2009年には連邦倒産法チャプター11の適用を申請する事態に至る。事実上の国有化と言っていいだろう。盤石だったはずのアメリカビッグ3のトップメーカーが経営破綻したことは、世界に衝撃を与えた。しかし、これは初めてのことではない。歴史を振り返ると、GMには草創期にも崖っぷちの状況に陥った経験がある。
1920年代、社長のウィリアム・デュラントは拡大路線を進め、3年間で2億1500万ドルを投資した。1918年の総資産は1億3500万ドルで、その1.5倍もの資金が投じられたことになる。第1次大戦後の好景気を受け、確かに自動車販売は拡大していた。デュラントは好機を逃さぬよう規模拡張を図ったのだ。関連会社を買収し、新工場を建設した。順風満帆のように見えたが、1920年の半ばから急に景気が減速する。売り上げは低迷を極め、多くの工場が閉鎖された。在庫が積み上がって運転資金は底をついてしまう。
デュラントは株価を維持するために、自己資金でGMの株を信用買いした。しかし、状況はますます悪化する。GMを救ったのは、以前から深い関係にあったデュポン社だった。資金と追加担保を提供し、絶体絶命の危機から脱出させたのである。デュラントは社長の座を追われ、GMはピエール・S・デュポンをトップに据えて立て直しを図ることになった。
デュラントの積極策は不首尾に終わったが、彼が自動車史に残る傑出した経営者であったことは事実である。友人と共に馬車製造業を始めたデュラントは、それを15年のうちに全米最大規模のメーカーに成長させる。次に目をつけたのが自動車だった。まだ生まれたての産業だったが、いずれ馬車に代わって輸送手段の主役になると考えたのだ。彼は1904年に小さな自動車会社のビュイックを手に入れると、急激に業績を改善させた。ビュイックはわずか4年後にアメリカのトップメーカーに躍り出た。
1908年、デュラントは持ち株会社としてGMを設立する。ビュイックに加え、オールズモビル、キャデラック、オークランドなどの自動車会社を買収し、さらにトラック会社や部品会社も次々に傘下に収めた。製品ラインナップを増やし、大規模な販売体制を作り上げようとしたのだ。同じ年、フォードは大量生産の先駆けとなる「T型」の製造を開始している。GMとフォードは、正反対の道を歩み始めていた。
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組織改革でフォードに立ち向かう
フォードは製品をT型1種に絞り、大量生産で価格を下げて、庶民でも手が届くクルマを提供した。ベルトコンベヤーを使った効率化の効果は絶大で、T型は低価格車市場を独占する。一時は世界で生産されるクルマの半分がT型という状態にまでなったのだ。
それに対し、GMは大衆車から高級車まで、幅広い製品を並べて販売網を整備する戦略をとった。これが功を奏し、1908年に2900万ドルだった売上高は、1910年には4900万ドルに達している。ただ、攻撃的な経営は勢いに乗っているときはいいが、逆境には弱い。景気が陰りを見せると、即座にキャッシュ不足が露呈した。需要が減少することなど想定していなかったので、生産調整が必要な状況への備えはまったくしていなかった。
銀行の支援でしのいだものの、経営権を彼らに渡さざるを得なくなった。しかし、デュラントはそれで諦めるような男ではない。ビュイックでレースに出ていたフランス人ドライバーのルイ・シボレーを押し立ててシボレー社を設立し、GMに対抗しようとしたのである。シボレーはヨーロッパ風のデザインと性能の高さが受け入れられ、瞬く間に人気車となった。資金を手にしたデュラントは、自社株とGM株の交換を呼びかけ、過半を押さえて経営権を奪取。1916年に社長に就任する。シボレーもGMの一部門になり、彼は再び拡大路線を推進していった。
彼はユナイテッド・モーターズを設立し、部品やアクセサリーの会社を買収して供給体制の一元化を図った。その中に、ハイアット・ローラー・ベアリング・カンパニーも含まれていた。社長を務めていたのはアルフレッド・スローンである。後にユナイテッド・モーターズがGMの一部門になると、スローンは副社長として経営に参加することになる。
ひたすら事業の拡大を追求するデュラントのもとで、スローンはGMの問題点を冷静に分析していた。1920年にデュラントが退陣を余儀なくされた後、彼がまず手を付けたのは組織の改革である。
1921年のアメリカ自動車業界では、低価格市場をフォードが独占し、超高級車市場では20社ほどのメーカーが競い合っていた。GMは7つの製品ラインで10車種を製造しており、会社の規模はフォードに次いで2位。しかし、無節操にいくつもの車種を投入した結果、中価格帯の市場では自社製品同士が食い合う状況が発生していた。スローンは製品ラインを6車種にまとめ、価格競合を解消するよう指示を出す。
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マーケティング戦略で成功を勝ち取る
1923年、スローンは社長に就任し、いよいよ本格的に組織改革を進める準備が整う。GMでは相変わらず、各ブランドが独自に生産計画を立て、景気が後退しても強気の生産を続けることが繰り返された。本社の統制は利かず、気付いた時には在庫の山が積まれることになる。財務状態も把握できていないため、見込みのない事業に無駄な資金がつぎ込まれていた。
スローンが取り組んだのは、事業部制の推進である。各ブランドが責任をもって計画を立案し、本社が全体の状況を判断して体系的で統一的な管理を行う。分権化しながらも全体の調整を図る組織を作り上げようとしたのだ。投資利益率の概念を採用し、財務コントロールを強化して経営状態を正確に把握することを目指した。
製品のラインナップには明確な原則が定められた。すべての価格セグメントに参入し、価格幅を調整して規模の利益を最大限に引き出す。GM車同士の競合は決してあってはならない。シボレー、ビュイック、オールズモビル、オークランド(後のポンティアック)、キャデラックの事業部に分け、それぞれが独立性を保ちながら最終的には社長がすべてを統制する。整然とした組織が出来上がり、フォードを追撃する準備ができた。
このころ、低価格市場ではT型の勢いが止まらず、1921年の市場シェアはフォードの60%に対しシボレーはわずかに4%だった。圧倒的な価格差があったのだから、低所得者層がT型を支持するのは当然だろう。ただ、自動車市場は少しずつ変化していた。1923年には市場規模が400万台に達し、買い替え需要が増加していたのである。価格の安さが最優先だった時代は終わりを迎え、ユーザーはクルマに付加価値を求め始めていた。
クローズドボディーのモデルが普及し始めていたことも、大きな変化だった。圧延技術の進歩によって薄板鋼板が量産されるようになり、ボディーのプレス加工も容易になった。シボレーはいち早く快適でスタイリッシュなクローズドボディーを取り入れる。大衆車ではあるものの、1925年に発売された「スペリア シリーズK(K型)」は、ワイパー付きのフロントウィンドウや、跳ね上げ式のステアリングホイールが採用されるなど、デラックスな印象を与えるモデルとなっていた。
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大恐慌に効率的な組織で立ち向かう
T型もクローズドボディーを持つモデルを増やしたが、オープンタイプを前提とした設計だったために魅力的な製品にはならなかった。スタイルも機構も古臭く、価格だけでは競争力を保てなくなっていた。GMは1926年にコーチビルダーだったハーリー・アールを入社させてデザイン部門を任せるようになる。自動車にとってのスタイリングの重要さを理解していたのだ。さらにはモデルチェンジを定期的に実施し、前モデルを陳腐化させて販売促進を図る手法も取り入れた。
ヘンリー・フォードは自らの信念を曲げようとはしなかった。自動車は恒久的な使用に耐えるものでなければならず、買い替える必要のない製品を作ることが正義だと考えた。理想主義と実用主義を貫こうとしたが、それは時代の変化に気付くことのない過剰な自信だったともいえる。T型を下取りに出してK型シボレーに乗り換えるユーザーが急激に増えていった。1927年、ついにT型は生産中止となる。
シボレーはこの機を逃さず、この年は前年の3割増しとなる約94万台を売り上げた。フォードは「A型」を投入して販売台数1位の座を奪還するが、その後は充実したラインナップを持つGMに水をあけられていく。生産現場から発想して自動車産業に革命を起こしたフォードだったが、マーケティングと販売戦略を重視するGMの優位性が明らかになりつつあった。
1929年の大恐慌で世界の経済は大混乱に陥った。自動車産業も大打撃を受け、アメリカの年間自動車販売台数は560万台から110万台に激減する。GMの売り上げも190万台から53万台に落ちたが、大きな痛手を負わずにすんだ。本社が販売と財務の状況を把握していたため、素早く適切な方策を取ることができたのだ。過剰在庫を最小限に抑え、傷口が広がるのを防いだ。効率的な組織があれば、苦難にも果敢に立ち向かうことができる。デュラントが種をまき、スローンが養い育てたGMは、それから半世紀にわたって世界の自動車産業をリードする存在となった。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。