第71回:日本車の輸出拡大と現地生産
生き残りのためのプレミアムブランド戦略
2020.03.26
自動車ヒストリー
本格的な海外進出を果たし、追う立場から追われる立場となった日本の自動車メーカー。逆境の中でも高い収益性を確保すべく、彼らがとった戦略が、過去にない上級モデルのラインナップだった。レクサスをはじめとした和製プレミアムブランドの歴史を振り返る。
1970年代に急増した日本車の対米輸出
日本の自動車メーカーがアメリカへ進出を始めたのは、1950年代である。1958年のロサンゼルス自動車ショーには、トヨタから「クラウン」と「ランドクルーザー」、日産から「ダットサン210型セダン」と「220型トラック」が出品された。しかし、当時の日本車の性能ではアメリカの交通事情に対応できず、本格的な輸出を始めることはできなかった。
トヨタはターゲットを変更し、1963年からヨーロッパに進出。デンマークにクラウンを輸出したのを皮切りに、オランダ、ノルウェーなどに販売拠点を築いていく。一方、アメリカでは1966年に投入した「コロナ」がセカンドカーとして高評価を得て販売が急増。トヨタにとって最大の輸出先となった。1968年からは「カローラ」の輸出も始まり、1971年には40万4000台の完成車が海を渡った。
1973年のオイルショックは、燃費のいい小型車を得意とする日本のメーカーにとって追い風となった。1970年にはアメリカの輸入乗用車販売台数のトップ10に入っていたのはトヨタと日産だけだったが、1975年にはホンダ、マツダ、三菱も加わっている。そしてこの年、フォルクスワーゲンに代わってトヨタが首位に。アメリカの輸入車販売台数のうち、51.8%を日本車が占めることになった。
1970年代末にはさらに日本車の輸出が拡大し、1980年にはアメリカで販売されるすべての自動車の中でのシェアが21.2%に達した。日本車の急増は政治問題となり、1981年に対米自動車輸出の自主規制が始まった。代わりに日本のメーカーはアメリカに工場をつくり、現地で生産することを選んだ。
ヨーロッパ車に対抗するための販売チャンネル
最初に現地生産を始めたのは、ホンダである。同社は1959年にアメリカン・ホンダ・モーターを設立し、1963年からは「ナイセストピープル・キャンペーン」を行って二輪車メーカーとしての地位を確立。四輪車の分野においても、オイルショック後にCVCCエンジンを搭載した「シビック」が大ヒットし、乗用車メーカーとして実績を重ねていった。1982年、ホンダはオハイオ州の工場で「アコード」の生産を開始する。日産は1983年に「ダットサントラック」から現地生産を開始。トヨタは1986年にカリフォルニア州フリーモントの工場で「カローラFX」の生産を開始した。
日本車はアメリカで確固たる基盤を築き、順調に販売を伸ばしていった。しかし、懸念材料がなかったわけではない。確かに台数は拡大していったが、あくまでそれは安くて壊れない優秀な実用車という評価だったのである。80年代の北米市場におけるトヨタのイメージは、“カローラとトラックの会社”というものだった。
日本車に追いやられた形となったドイツ車は、その間に着々とステータスを高めていった。メルセデス・ベンツやBMWが揺るぎないブランドを築き、利幅の大きな高級車市場で売り上げを伸ばしていく。イギリスのジャガーやスウェーデンのボルボも、存在感を高めていった。一方、大衆車の分野では日本車よりもさらに安価な韓国車が進出を始め、日本メーカーはシェアを奪われてしまう。しかも、円高の進行が利益確保を困難にしていった。生き残るためには、主力を上級車種に移行する必要があったのである。
しかし、大衆車のメーカーというイメージがついているかぎり、ヨーロッパ車の牙城を崩すのは難しい。そこで考えられたのが、高級車を扱う新たな販売チャンネルをつくることだった。いち早く動いたのは、やはりホンダだった。1986年、同社は新たにアキュラを立ち上げる。全米60カ所のディーラーで、高級セダンの「レジェンド」とスポーティーカーの「インテグラ」が販売された。日本車として、初めてのプレミアムブランドとなったのである。
トヨタと日産も、新たなブランドを設立した。1989年、トヨタからレクサス、日産からインフィニティが誕生する。中でもアメリカのユーザー、そしてヨーロッパの自動車メーカーに大きな衝撃を与えたのは、レクサスのフラッグシップセダン「LS400」だった。それは、“高級車の定義を変えた”と評されるほどの驚きだった。
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短期間でブランドを構築したレクサス
トヨタはアメリカ人のジャーナリストをドイツに招待し、LS400の試乗会を開いた。比較用に、メルセデス・ベンツやBMWなどの競合車も用意されていた。レクサスの性能を試してもらうため、高速走行のできないアメリカではなく速度無制限のアウトバーンを選んだのだ。“トヨタの高級車”を疑いの目で見ていたジャーナリストは、思い違いに気づくことになる。240km/hでも緊張することなく走ることができ、何よりも静粛性が素晴らしかった。それほどの速度でも、オートチェンジャーに収められたクラシックのCDをストレスなく聞けることが彼らを驚かせた。
販売価格も誰も予想しなかったものだった。ヨーロッパ車の中型車クラスと同等の3万5000ドルという値付けがされていたが、4リッターV8エンジンを搭載するLS400は各社のフラッグシップと競合するモデルだった。『フォーチュン』誌では「自動車産業市場でレクサスLS400ほど徹底的に解析されたクルマはない」と書かれた。なぜなら、「デトロイトからシュトゥットガルトまでのエンジニアが、5万ドル以上はするクルマをいやらしいほどの安い価格で生産した秘密を探ろうとした」からだという。
評価されたのは、クルマの性能だけではなかった。ディーラーでのきめ細やかな接客やアフターサービスが、それまでのアメリカでは見られないレベルだったのである。顧客第一主義を貫く姿勢は、品質の評価と相まってレクサスのブランド価値を押し上げた。1989年8月に発売してから12月までに販売された1万1000台以上のLS400のうち、約38%がヨーロッパ車からの買い替えだった。J.D.パワー社が1990年7月に発表した新車購入ユーザーの品質評価に関する調査では、メルセデス・ベンツを上回ってトップにランクされた。
日本の国内市場でも存在感を持つように
アキュラ、レクサス、インフィニティは、アメリカ以外にも進出してグローバルなブランドとなっていく。しかし、一つだけ重要な市場が手つかずのまま残されていた。日本である。3ブランドとも、日本では新たな販売チャンネルを立ち上げなかったのだ。アキュラ・レジェンドは「ホンダ・レジェンド」として販売され、「インフィニティQ45」という車名のモデルが日産のディーラーに並べられた。レクサスLS400と同じモデルは日本でも発売されたが、「トヨタ・セルシオ」という名で売られていた。
2005年、レクサスが日本市場に導入された。「日本の文化に根差した日本発のプレミアムブランドをつくる」ことを課題にし、グローバルな展開を進めるための決断だった。日本でも高級車市場はヨーロッパ勢が席巻しており、状況を打開するには世界基準のブランド再構築が必要だと考えたのだ。日本で成功をおさめれば、課題のヨーロッパ市場でも存在感を見せることができる。
「おもてなし」をキーワードにして和の精神をクルマに注ぎ込み、「L-finesse(エルフィネス)」というデザインテーマを設定して「先鋭-精妙の美」を目指した。500項目以上にわたって定められた「LEXUS MUSTs」は、トヨタ車との差別化を図るための技術的なレシピだった。ヨーロッパ車とは異なる新たな価値を際立たせたのは、ハイブリッド技術である。2007年に発売された「LS600h」は、5リッターエンジンでありながらモーターの力を借りて6リッター並みの動力性能を発揮。同時に3リッター車並みの低燃費を実現していた。
かつての日本車は、性能の割に安いという理由で人気を得ていた。それは実用品としての評価であり、伝統を持つヨーロッパの高級車とは別なカテゴリーだと思われていた。歴史の面では引けを取る日本車だが、レクサスはゼロからプレミアムブランドを構築した。わずかな期間で、メルセデス・ベンツやBMWといった強力な相手と真っ向から勝負できる体制を築き上げたのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。