第99回:トヨタと日産が激突した“BC戦争”
大衆化が生んだマーケティングの時代
2021.04.28
自動車ヒストリー
日本における自動車の大衆化をけん引した「コロナ」と「ブルーバード」。高い技術力を武器に販売で先行する日産に対し、トヨタが講じた策とは? 自動車の商品開発と販売におけるマーケティングの重要性を知らしめた“BC戦争”の経緯を振り返る。
「クラウン」と「ダットサン110型」が誕生した1955年
1955年に発売された「トヨペット・クラウン」は、日本の自動車産業がようやくスタート地点に立ったことを示していた。トヨタが純国産にこだわり、自主開発した技術でつくり上げた本格的な乗用車だったのである。当時の日本の道路を走っていたのは輸入車ばかりで、そうでなければライセンス生産されたクルマ。そのなかに堂々と仲間入りしたクラウンは、いよいよ国産車も欧米のクルマと張り合えるようになったと感じさせたのだ。
時を同じくして、日産からひとまわり小型の乗用車がデビューする。「ダットサン110型」だ。それまで生産されていたダットサンは戦前のモデルをベースにしたものだったが、110は新設計のボディーをまとっていた。フレームはトラックと共用のはしご型、エンジンは従来の860ccサイドバルブと旧式のままだったが、改善された乗り心地と頑丈さが評価され人気となる。その頃はまだオーナードライバーは少なく、タクシー市場で販売を拡大した。中型クラスはクラウン、小型クラスはダットサンという図式が生まれたのである。
トヨタ、日産はともに、相手の得意な市場に進出しようと狙っていた。日産は1960年に「セドリック」を発売し、クラウンのシェアを奪いにいく。トヨタもダットサンを追撃すべく、1957年に「コロナ」を発売した。ただ、このモデルが急ごしらえであったことは否定できない。「トヨペット・マスター」のパーツを多く流用し、エンジンは旧式なサイドバルブの1リッター直列4気筒。トヨタ初のモノコックボディーを採用するというトピックはあったが、軽量化には結びつかずパワー不足は明らかだった。
ダットサン110型はコロナの登場を受けて210型へとモデルチェンジし、1リッター直列4気筒OHVエンジンを採用する。ライセンス生産していた「オースチンA50」用の1.5リッターエンジンをストロークダウンしたもので、信頼性が高く高回転を誇った。ダットサンの評判はますます高まり、コロナとの差を広げていく。1958年には対米輸出も開始された。
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技術で先行するブルーバード
ダットサンの攻勢はさらに続く。1959年8月に「310型」が発売され、「ブルーバード」という愛称が加えられた。メーテルリンクの童話『青い鳥』にちなむもので、クルマを所有することで幸福がやってくるという意味を込めていた。エンジンは従来の1リッターと、ストロークを延ばした1.2リッターの2種類。はしご型フレームは踏襲するものの、セミモノコック構造を採用して軽量化を図っている。車両重量は、1.2リッターモデルでも870kgに抑えられた。
ボディーの軽量化と剛性アップが走行性能に大きなメリットを与えるという認識が、はっきりと結果に表れている。設計の段階で可能な限り軽量化し、テスト走行を重ねることで弱点を補強する方法が採られた。前輪には独立懸架のダブルウイッシュボーンを採用し、乗り心地の向上を目指したという。市場の評価は高く、発売1カ月後には8000台以上のバックオーダーを抱えた。
ブルーバード発売の2カ月後、コロナはエンジン変更で対抗する。1リッターOHVエンジンは45馬力を誇り、43馬力のブルーバードを上回った。最高速度も105km/hを達成。しかし、ブルーバードの勢いは止まらない。コロナは発売後半年でようやく3500台を販売したにすぎなかった。
この頃から、ブルーバードとコロナの競い合いを評して“BC戦争”という言葉が使われるようになった。2台のクルマの頭文字をとった命名である。もはやタクシー需要一辺倒の時代は終わり、一般家庭が自動車を所有するようになっていた。自動車評論家の徳大寺有恒氏は、ブルーバード310を「初めてのオーナードライバーズカー」と評している。
トヨタは1960年にコロナをフルモデルチェンジし、状況の打開を試みる。新型は、極めて意欲的なモデルだった。ルーフを支えるピラーがすべて後傾しているという、斬新なエクステリアデザインがまず目を引く。しかしスタイル以上にメカニズムが先進的だった。エンジンは先代モデル末期に採用された1.2リッターをそのまま使ったが、サスペンションは一新されている。フロントはトーションバーを使った独立懸架で、リアにはリーフスプリングとコイルを組み合わせたカンチレバー式を用いた。広くフラットなフロアを実現するための工夫である。
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ヨーロッパ志向のデザインがあだに
発売の1カ月前から少しずつ姿を見せていくというティザーキャンペーンも、日本では初の試みだった。それが功を奏したのか、発売当初の売れ行きは好調。しかし、凝ったメカニズムが裏目に出る。カンチレバー式サスペンションは道路の整備が進んでいなかった当時の道には繊細にすぎ、タクシー業界から評判が悪かった。舗装路では操縦性がいいものの、地方にはまだ多かった砂利道での耐久性に問題があったのである。2年後にリアサスペンションは従来のリーフリジッドに戻されるが、コロナは悪路に弱いという評価はすでに定着していた。
ブルーバード310型は累計生産台数が21万台に達し、そのうち3万2000台が輸出された。どちらも一車種としての当時の最高記録である。快進撃に拍車をかけようと、1963年に「ブルーバード410型」が登場した。リードを盤石にするため、日産が総力を傾けたモデルである。エンジンは前モデルと同じだが、パワーは大幅に向上して、1リッターは34馬力から45馬力に、1.2リッターは43馬力から55馬力になった。
日産初となるフルモノコックボディーが採用され、軽量化を実現しながらボディー剛性を確保。ブレーキドラムの大型化で高速走行での安全性を高め、5万kmに及ぶテスト走行で細部の仕上げを行った。派手な技術が取り入れられたわけではないが、着実に走行性能と快適性を高めたのである。
エクステリアデザインは、見るからに新しかった。スタイリングを手がけたのは、イタリアのカロッツェリアでもトップに君臨するピニンファリーナである。当時は日本の自動車会社がトリノにデザインを依頼することが流行していて、他のメーカーを見ても、プリンスはスカリオーネ、マツダはベルトーネと深い関係を持っていた。410型の仕上がりはいかにもヨーロッパ的な洗練を感じさせるもので、日産は自信を持って新型モデルを世に送り出したのだ。
しかし、結果は芳しいものではなかった。初速こそ悪くなかったものの、徐々に売り上げを落としていく。リアに向けて尻下がりになるラインが日本人の好みに合わず、不満の声が聞かれるようになったのである。当時の大衆が欲したのは、重厚で豪華な見た目だった。
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大衆の欲望に応えたコロナ
翌年デビューしたコロナの3代目が、BC戦争を新たな局面へと導いた。トヨタは先代の失敗を踏まえ、十分に市場動向を見極めたうえで堅実な策を選んだのである。エンジンは前モデルの後期に投入された1.5リッターをさらに改良したもので、70馬力というハイパワーを実現。2代目コロナはクラウンのパーツが流用された結果、車重が重くなっていたが、新型はトランスミッションやディファレンシャルなどを専用設計とすることで軽量化・コンパクト化が図られた。
フロントからリアへと流れる“アローライン”を軸にしたデザインも斬新だったが、全体的には落ち着いた箱形で、力強い風格を持っていた。加えて、従来より太いサイズのタイヤを装着し、スポーティーな雰囲気を演出。室内を豪華に見せることにも力が注がれ、より高級なモデルを求める大衆の願いに応えた。技術がすべてではなく、マーケティングの手法を用いた製品企画が有効なことを、コロナは明確に示したのだ。
1965年1月、コロナは初めてブルーバードを上回る販売台数を記録。翌月は逆転されたものの、直ちに再逆転を果たし、その後はコロナがゆっくりと差を広げていった。「新型コロナ、日本一に!」という広告が華々しく打たれ、人々は勢いのあるコロナに目を移していった。
ブルーバードのクルマとしての完成度が低かったわけではない。事実、アメリカでの販売は好調だった。日本市場で受け入れられなかったのは、人々の好みに合わなかったからだ。自動車市場の大衆化が進み、単純な技術アピールで製品は売れなくなっていた。マーケティングが販売を左右する時代が始まったのだ。
BC戦争はひとまず落ち着いたが、自動車の販売競争はさらに激しくなっていく。1966年になると日産が「サニー」、トヨタが「カローラ」を発売する。“マイカー元年”と呼ばれるこの年から、自動車は性能向上とイメージ戦略を複雑に絡めながら大衆の欲望を喚起していくことになる。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。