レーシングカーの地平を革新し続けた名門 チーム・ロータスの歴史を振り返る
2020.06.01 デイリーコラムF1の歴史を語るうえで欠かせない“かつての名門”
フジテレビがF1全戦中継を始めた1987年を“日本のF1元年”とすれば、多くの日本人が最初に熱烈に応援したチームは、ロータスだったのではないだろうか。初の日本人フルタイムドライバーとして中嶋 悟がステアリングを握り、最強を誇ったホンダ・ターボを武器に世界に挑んだ、キャメルイエロー鮮やかな「ロータス99T」は、今もわれわれの脳裏にしっかりと焼き付いていることだろう。
ドライバーズタイトル獲得6回、コンストラクターズタイトルは7回を数えるチーム・ロータスは、誉れ高い名門だった。通算79勝、ポールポジション107回は、それぞれ歴代5位につける大記録として今も輝いている。しかし、中嶋のデビューからF1に入った日本人のファンにしても、ロータスは“かつての名門”という印象が強かったのではないだろうか。中嶋のチームメイトだったアイルトン・セナは1987年を最後にマクラーレンに移籍し、悲願のワールドチャンピオンとなったことは周知の通り。ホンダもたった2年の付き合いでロータスに別れを告げた。
ターボから自然吸気(NA)へと移行した1989年、ロータスは非力なジャッドV8で参戦。中嶋と元王者ネルソン・ピケは苦戦を強いられ、ベルギーGPではチーム史上初めて2台そろって予選落ちするなど低迷した。さらに1990年末でキャメルがスポンサーを降りると深刻な資金難に陥り、1994年シーズンを終えた時点でついに力尽き、37年間の歴史に幕を下ろした。
だが、こうした晩年の凋落(ちょうらく)ぶりを目の当たりにしていたとしても、「ロータスは名門」ということに読者諸氏から異論が出ることはないだろう。単に強かった、速かった、勝ちまくったということだけではない。ロータスとその創始者コーリン・チャップマンは、今日のF1やレーシングカーへと通ずる数々のイノベーションを巻き起こし、モータースポーツの技術向上に一役も二役も買ってきた。いまや自明となったあの技術やこの方法を、最初に採り入れたのがロータスだった、そんなエピソードは珍しくない。
今回は、F1におけるチーム・ロータスの足跡をたどりながら、あらためて名門と呼ばれるゆえんに迫ってみたい。なお本稿では、2010年代に突如名前だけ復活したロータスについては割愛させていただく。
フォーミュラ初のモノコック採用「ロータス25」
1928年、チャップマンはロンドン近郊のサリー州に生まれた。のちに天才的な先見の明で数々の技術革新をもたらすことになる彼の礎には、大学で学んだ構造力学や飛行機団体での体験、さらには短期ながらイギリス空軍で過ごした経験などがあったとされる。戦後の混乱期に中古車販売から小さな自動車工場を立ち上げ、1952年にロータス・カーズ設立。モータースポーツ活動やレーシングカー製造にも力を入れていた。
チーム・ロータスのF1デビューは、コンストラクターズ選手権が始まった1958年。この年は6チーム中最下位(3点)、翌年も4チーム中ビリ(5点)と当初はパッとしなかったが、1960年代に入ると上昇気流に乗りGPを席巻することになる。
1960年に投入したチャップマン設計の「18」では、ロータスで初めてミドシップレイアウトを採用。このマシンを駆るスターリング・モスがモナコGPで初優勝を飾ったのだが、これはプライベートチームでの初Vであり、ワークスとしては翌年のアメリカGPでイネス・アイルランドが「21」で勝ち取ったのが初(アイルランドにとっては唯一の)勝利となる。
ミドシップは、まだフロントエンジンが大勢を占めていた1957年にクーパーが先鞭(せんべん)をつけたものであり、ロータスが“発明”したわけではなかった。チャップマン最初の本格的な発明は、1962年の「25」で採用された、フォーミュラカー初のモノコックシャシーだというべきだろう。
パイプを“線”としてつなぎ合わせたチューブラー・スペースフレームから、外板を含めた“面”で剛体を構成するモノコックにスイッチすることで、高剛性かつ軽量なマシンをつくり上げることに成功。航空界で用いられた技術をレーシングカーに応用した、チャップマンのイノベーション第1号であった。
2人の天才、チャップマンとクラークの時代
ロータスはこの名車25でライバルを圧倒。そのステアリングを託されたのが、農夫からF1王者となった“フライング・スコット”ことジム・クラークだった。最初の1962年、躍進著しい同郷のBRM&グラハム・ヒルに両タイトルを奪われるも、全9戦で3勝、ポール6回、最前列は8回、ファステストラップ5回という活躍をみせ、ロータスとともにランキング2位に終わる。
翌1963年は、25とクラークの年。10戦7勝と文句なしの強さで初戴冠、27歳のクラークは当時最年少で王者となった。当時はベスト6戦分のポイントしかカウントされない有効ポイント制だったため、ぜいたくにも1勝を切り捨ててチャンピオンになるという完勝ぶり。ランキング2位のヒルにおよそ2倍(総得点では2.5倍)という大差をつけての圧勝だった。またレースでは、雨のベルギーGPで2位ブルース・マクラーレンの駆るクーパーを約5分(!)も突き放し独走優勝するなど、クラークは無敵だった。
1964年は接戦の末に敗れ防衛とはならなかったものの、1965年はロータス、クラークともに2回目のタイトル獲得に成功。25とその進化版である「33」を使い分けながら、参戦したレースで開幕から6連勝を挙げ、3戦を残して早々に王座奪還を果たしてしまった。10戦6勝、今回も有効ポイントは満点。しかも第2戦モナコGPを欠場して出場したインディアナポリス500では、3度目の挑戦にして初優勝を飾るという快挙を成し遂げるおまけまでついた。
チャップマンとクラーク、2人の天才による時代は、1968年4月のF2レースでクラークが事故死したことで突如終焉(しゅうえん)を迎える。2度王座に就いたクラークの生涯成績は72戦25勝、3レースに1回は勝っていたことになる。これはニキ・ラウダと並ぶ歴代9位の記録であり、ロータスの全勝利数の3割以上を数える。ポール獲得数33回は、1989年アメリカGPでセナに抜かれるまで、歴代1位の座を譲らなかった。
名機「DFV」の誕生と、スポンサーカラー初採用
F1参戦以来、ロータスの成功を支えたエンジンといえば「コヴェントリー・クライマックス」がメインだったが、1966年に1.5リッターから3リッターに拡大されると、チャップマンは勝てる新たな動力源を求めた。
チャップマンが話を持ちかけたのが、かつてロータスに籍を置いていたマイク・コスティンとキース・ダックワース。2人が立ち上げたコスワース・エンジニアリングにフォードの資本が加わり誕生したのが、後に155勝という大記録を打ち立てる「フォード・コスワースDFVエンジン」である。
元スタッフ、そしてフォードとのコネクションを巧みに使ったチャップマンは、初年度の1967年シーズンにDFVを独占供給させることに成功。チャップマンとモーリス・フィリップの手になる「49」に搭載されたこの名機は、1967年第3戦オランダGPでクラークによりデビューウィンを飾り、結果この年は4勝を記録。しかしクラーク、そして新たにチームに加わったヒルともに王座を逃した。翌1968年には僚友クラークの死を弔うかのようにヒルが奮闘し、ロータスはドライバー(ヒル)、コンストラクターの両タイトルをつかみ取った。
DFVに最初の勝利をプレゼントした49には、もうひとつ、エポックメイキングな出来事があった。1968年、それまで国別のカラーリングをマシンに施していた時代にあって、初めてスポンサーカラーを採用。ブリティッシュグリーンに黄色いラインの入ったおなじみの意匠を捨て、タバコブランド「ゴールド・リーフ」の金・赤・白に塗られたロータスは、F1商業化の先陣を切り、以後、F1をはじめとする世のレーシングマシンは広告塔としての役割を果たすことになった。
サイドラジエーターという革命
1970年代に入ると、F1はより現代的な姿へと近づきはじめる。すなわち葉巻形から、前後にウイングの付いたクサビ形となり、空気の流れを意識した空力付加物が出始めるのだ。こうした技術革新の地平を切り開いたのも、やはりロータス&チャップマンだった。
1970年にデビューした「ロータス72」には、インボードブレーキ、トーションバーサスペンションなどの新機軸が盛り込まれていたが、より大きなトピックは、ラジエーターをフロントからサイドポッド内に移行し、後輪への荷重を増したこと。さらにフォルムをクサビ=ウエッジシェイプとしたことだ。現代に通ずるこの形態から、やがてマシン周辺を流れる空気との付き合い方、つまりエアロダイナミクスが発展することになる。
72はシリーズとして「B」から「F」までバリエーションが広がり、1975年までにヨッヘン・リント、エマーソン・フィッティパルディ、ロニー・ピーターソンが計20勝を記録。1970年は、イタリアGPでの事故死の後にリントが王者確定となり、また1972年にはフィッティパルディがブラジル人で初めて王座に。チーム・ロータスにもコンストラクターズタイトルを3度もたらす名車となった。
空気を味方につける「グラウンドエフェクト」の発明
1970年代後半は群雄割拠。ティレルは6輪車「P34」(1976年、1977年)を、ブラバムは巨大なファンでダウンフォースを獲得しようとするファンカーこと「BT46B」(1978年)を、そしてルノーは初のターボ搭載マシン「RS01」(1977年)を世に出すなど、各陣営とも斬新なアイデアでしのぎを削りあう時代だった。
なかでも、その後のF1の様相を大きく変えたのが、1977年にロータスが「78」で採用した「グラウンドエフェクト」だった。「ウイングカー」とも呼ばれるように、サイドポッド下を航空機の翼を逆さまにしたような構造とし、上への揚力ではなく下向きの力、すなわちダウンフォースを発生させるという斬新な技術。見えない空気を味方につけるこのメカニズムは、F1のコーナリングスピードを著しく高速化させ、翌年にはライバルもこぞって採り入れることになった。
78のデビューイヤーは、マリオ・アンドレッティが誰よりも多い4勝を記すも、トラブルなどでランキングは3位。それが完成度を増した翌1978年の「79」になると快進撃は止まらず、アンドレッティは16戦6勝で悲願のチャンピオンに。チームメイトのピーターソンと合わせると、ロータスは8勝、表彰台14回、1-2フィニッシュ4回という圧倒的な強さで前年王者フェラーリを下した。だが第14戦イタリアGPで起きた多重事故でピーターソンが他界。才能あふれる34歳のスウェーデン人ドライバーを失ったことで、ロータスにとっては悲しみのうちにシーズンを終えることとなった。
その後しばらくはグラウンドエフェクトの時代が続いた。サイドポッドと地面の間に“スカート”が付けられると、ボディー下の密閉はさらに高まり、ダウンフォースも増大。しかし、ひとたび密閉が破られるとマシンはたやすくコントロール不能となった。こうした危険性も指摘されるようになり、ウイングカーは1982年を最後にルール上禁止された。
そしてロータスは、78、79の成功を最後に、ゆるやかな衰退期に入った。
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チャップマンの死 チームの消滅
1980年代は、誰もが手にして勝利を目指せた万能DFVエンジンから、強大なパワーほとばしるターボエンジンへ、主役の座が移る時だった。そのさなか、ロータスはチームの主人であったチャップマンとの、突然の別れを迎えることとなった。1982年12月、チャップマンは54歳という若さで心筋梗塞で急逝する。レーシングカーの地平を革新し続けたイノベーターの、結果的に最後の置き土産となった「アクティブサスペンション」。そのテストが行われようとしていた矢先の、永遠の別れだった。
カリスマ亡き後、長年チームに仕えてきたピーター・ウォーが監督として就任し、ターボの元祖であるルノーをエンジンパートナーにして再出発。1985年には気鋭のアイルトン・セナを獲得し、再びトップランナーの仲間入りを果たす。1987年はホンダエンジンとアクティブサスペンンションで戦うも、タイトルを狙えるほどの戦闘力は持ち合わせていなかった。ウィリアムズ、マクラーレンといった英国の新興勢力の陰に隠れていった老舗ロータス。こうして“名門”から“かつての名門”へと転げ落ち、1994年、ついにチームは消滅するのだった。
ゴールド・リーフ 、そして“ブラックビューティー”と称された黒の優麗なJPSカラーも昔日の思い出。晩年のロータスのマシンは、小さなスポンサーロゴのほかは隙間が目立ち、はた目からもその懐具合がうかがい知れた。そんなロゴの中には、タミヤやコマツ、日立やシオノギといった日系企業の名前が。やはり日本人にとって、ロータスは特別なチームだったということなのだろうか。
ロータス最後のタイトルは、ドライバー、コンストラクターともに1978年。最後となる79回目の優勝は、1987年の第5戦、デトロイトで行われたアメリカGPでセナが挙げたものだった。最後の107回目のポールも1987年のセナで、第2戦サンマリノGPで記録された。
さて、それではロータス最後の、71回目のファステストラップは?
答えは、1989年最終戦、大雨に見舞われたオーストラリアGP。このレースを最後に3年間在籍したロータスを離れることが決まっていた“雨のナカジマ”により刻まれた。そして1994年、最後の年のエンジンは、無限ホンダのV10だった。
「蓮(はす)」というオリエンタルな名前が与えられたチーム・ロータス。歴史に残る名門は、日本にとって、やはり特別な存在なのである。
(文=柄谷悠人/写真=フォード、モビリティランド、M-TEC、Newspress、webCG/編集=堀田剛資)
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柄谷 悠人
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