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第62回:シャイなF1ヒーロー ジム・クラーク
歴史に名を刻む 希代の天才の栄光と死

2019.11.14 自動車ヒストリー 1960年代のF1において、驚異的なドライビングスキルと温厚な人柄で敬愛されたスコットランドの英雄、ジム・クラーク。スターリング・モスに憧れ、コーリン・チャップマンに見いだされた希代の天才の生涯と、死と隣り合わせだったフォーミュラの歴史を振り返る。

草創期の立役者はアルゼンチン人

2019年のF1ドライバーズタイトルは、メルセデス・ベンツが擁するルイス・ハミルトンのものとなった。3年連続、通算6回目のタイトル獲得である。今のところ、F1ドライバーの最多タイトルはミハエル・シューマッハーの7回だが、それに迫る記録だ。

彼らを含め、1950年にスタートしたF1世界選手権は、これまでに33人のワールドチャンピオンを生み出している。中でも草創期のヒーローと呼べるのが、ファン・マヌエル・ファンジオだ。イタリア移民の血を引くアルゼンチン人で、当初は国内の山岳レースや超長距離レースで活躍していた。第2次大戦後にフランスに渡り、1949年のグランプリレースではマセラティで好成績を残す。

翌年に始まったF1ではアルファ・ロメオのドライバーとなり、最強マシン「ティーポ158」で速さを見せた。当時のレギュレーションでは自然吸気エンジンが4.5リッター以下、過給器付きエンジンが1.5リッター以下の排気量となっており、アルファ・ロメオはスーパーチャージャー付き1.5リッターエンジンを搭載していた。チームにはファンジオのほかにジュゼッペ・ファリーナ、ルイジ・ファジオーリがおり、「3F」と呼ばれた彼らは他を寄せ付けぬ走りでトップ争いを展開。ファンジオは3勝したものの、初代チャンピオンの座はファリーナのものになった。

1951年はフェラーリが躍進。イギリスGPでアルファ・ロメオに勝利したエンツォ・フェラーリは、「私は母を殺してしまった」という有名なセリフを残している。タイトル争いはアルファ・ロメオのファンジオとフェラーリのアルベルト・アスカリの対決になり、ファンジオが勝利。彼は1954年からマセラティ、メルセデス、フェラーリを渡り歩いて4連覇を果たし、1958年に47歳でF1を引退した。

1954年のオランダGPにて、優勝を喜ぶファン・マヌエル・ファンジオ(1911-1995)。
1954年のオランダGPにて、優勝を喜ぶファン・マヌエル・ファンジオ(1911-1995)。拡大
1951年のタイトル争いは最終戦スペインGPまでもつれ込んだが、ファンジオは見事に優勝し、自身初のドライバーズタイトルを獲得した。
1951年のタイトル争いは最終戦スペインGPまでもつれ込んだが、ファンジオは見事に優勝し、自身初のドライバーズタイトルを獲得した。拡大
ファンジオはアルファ・ロメオ、マセラティ、メルセデス、フェラーリ、再びマセラティと、さまざまなチームを渡り歩いた。写真は1955年のタイトル獲得を決めた、最終戦イタリアGPのもの。
ファンジオはアルファ・ロメオ、マセラティ、メルセデス、フェラーリ、再びマセラティと、さまざまなチームを渡り歩いた。写真は1955年のタイトル獲得を決めた、最終戦イタリアGPのもの。拡大
5度目のタイトルを決めた1957年のドイツGPにて「マセラティ250F」を駆るファンジオ。彼の最後のタイトルは、“古巣”マセラティでの獲得となった。
5度目のタイトルを決めた1957年のドイツGPにて「マセラティ250F」を駆るファンジオ。彼の最後のタイトルは、“古巣”マセラティでの獲得となった。拡大

モスに憧れ、チャップマンと出会う

ファンジオと同じ時代に、イギリスの英雄だったのがスターリング・モスだ。1955年にはメルセデスでファンジオのチームメイトにもなっている。実力は折り紙付きで、何度もタイトル争いに絡んだが一度もチャンピオンにはなれず、「無冠の帝王」と呼ばれていた。

スコットランドの田舎町に、そんなモスの活躍を憧れの目で見つめる少年がいた。ジム・クラークである。彼は9歳で父の「オースチン・セブン」を運転し、クルマとレースへの関心を深めていった。地元のローカルなレースやラリーに出場するようになったのも自然な流れだ。

それでも両親は彼がモータースポーツにのめり込むことに反対し、農家の跡取りとして家業に専念することを望んだ。姉は4人いるが、彼がクラーク家唯一の男子だったからである。しかし、仲間内で飛び抜けた才能を示していたクラークには、レース関係者から注目が集まっていった。1959年12月26日、彼はブランズハッチで行われたロータスのテストに参加することになる。

クラークにとっては初めてのコースで、シングルシーターのマシンに乗った経験もなかった。最初のコーナーでコースアウトしたものの、慣れるに従ってペースを上げていく。ついにはワークスドライバーのグラハム・ヒルに迫る好タイムを記録し、走りを見ていたロータスの総帥、コーリン・チャップマンを驚かせた。運命的な出会いである。クラークはチャップマンにレース人生を預けることになり、ヒルとはよきライバル関係を築いていった。

ロータスは1960年のオランダGPに、初のミドシップマシン「18」を3台エントリーさせる。このGPでは、ジョン・サーティースが同じ日に行われた二輪レースに出ることになり、リザーブだったクラークが空いたシートに座った。結果はギアボックスが壊れてのリタイアだったが、一時は5番手を走るなどしてポテンシャルを示した彼は、次のベルギーGPも走ることとなった。

独ホッケンハイムにて、「メルセデス・ベンツ300SLR」(W196S)のテストに臨むスターリング・モス。(1955年)
独ホッケンハイムにて、「メルセデス・ベンツ300SLR」(W196S)のテストに臨むスターリング・モス。(1955年)拡大
1963年と1965年のF1ドライバーズチャンピオンであるジム・クラーク(1936-1968)。驚異的なドライビング技術と、純朴・温厚な性格で敬愛された。
1963年と1965年のF1ドライバーズチャンピオンであるジム・クラーク(1936-1968)。驚異的なドライビング技術と、純朴・温厚な性格で敬愛された。拡大
チーム・ロータスの代表コーリン・チャップマン(左)とクラーク。クラークは、9年にわたるF1のキャリアのすべてをロータスで過ごした。
チーム・ロータスの代表コーリン・チャップマン(左)とクラーク。クラークは、9年にわたるF1のキャリアのすべてをロータスで過ごした。拡大
クラークと同じイギリス人ドライバーのグラハム・ヒル。クラークとは時にチームメイトとして、時にライバルチームのドライバーとして競い合った。
クラークと同じイギリス人ドライバーのグラハム・ヒル。クラークとは時にチームメイトとして、時にライバルチームのドライバーとして競い合った。拡大

27歳でドライバーズタイトルを獲得

スパ・フランコルシャンは波乱のレースとなった。予選では、プライベートチームから参戦していたスターリング・モスの乗るマシンのサスペンションが壊れ、大事故が起きる。彼は負傷して決勝には出られず、次戦からF1を欠場することになった。決勝ではクーパーのクリス・ブリストウがバリアーに激突して死亡する。そのわずか5周後にはロータスのアラン・ステーシーがコントロールを失ってクラッシュ。顔面に鳥が衝突したのが原因である。マシンは炎上し、ステーシーはこの日2人目の犠牲者となった。

クラークは5位に入って初の得点を獲得したが、手放しで喜ぶことはできなかった。負傷者と死者が続出し、F1史上に残る最悪のレースのひとつになってしまったのだ。フィニッシュラインを越えたマシンは6台にすぎなかった。

1961年シーズンは、復活したスターリング・モスが2勝を挙げて健在ぶりを示したが、本人は時代が移り変わりつつあることを自覚していた。当時モスは「唯一恐れているのは、ジム・クラークだ」と発言している。クラークはF1での実績は乏しかったが、チャンピオンシップのかからないレースでは、何度もモスを破っていた。

スローイン・ファーストアウトがコーナリングの基本とされている中で、彼だけはファーストイン・ファーストアウトの走法を身につけていたといわれている。それでも、1961年はフェラーリがシーズンを席巻。1962年は、ベルギーでのF1初勝利を皮切りに3勝を挙げるが、当時BRMに所属していたグラハム・ヒルに一歩及ばず、タイトルには手が届かなかった。

クラークが初めてドライバーズタイトルを手にしたのは、1963年である。27歳での戴冠は当時の最年少記録だった。10戦中7勝し、圧倒的な力を見せつけた。

1960年のモナコGPにて、「ロータス18」を駆って優勝したスターリング・モス。ロータス18は高い動力性能を備えていたが、信頼性に問題があり、ベルギーGPでは同車に乗るモスとマイク・テイラーが同じ足まわりのトラブルで大事故に見舞われた。(写真:Newspress)
1960年のモナコGPにて、「ロータス18」を駆って優勝したスターリング・モス。ロータス18は高い動力性能を備えていたが、信頼性に問題があり、ベルギーGPでは同車に乗るモスとマイク・テイラーが同じ足まわりのトラブルで大事故に見舞われた。(写真:Newspress)拡大
1961年はフェラーリがF1を席巻。そんな中でも、モスはモナコGP、ドイツGPと2勝を挙げた。特にモナコでは、軽量化のために「ロータス18」のサイドパネルを外して走行した。(写真:Newspress)
1961年はフェラーリがF1を席巻。そんな中でも、モスはモナコGP、ドイツGPと2勝を挙げた。特にモナコでは、軽量化のために「ロータス18」のサイドパネルを外して走行した。(写真:Newspress)拡大
F1と同じルールで行われたBRDCインターナショナルトロフィーの様子(1960年)。当時はF1世界選手権以外にもこうしたレースが頻繁に行われており、クラークも活躍を見せていた。(写真:Newspress)
F1と同じルールで行われたBRDCインターナショナルトロフィーの様子(1960年)。当時はF1世界選手権以外にもこうしたレースが頻繁に行われており、クラークも活躍を見せていた。(写真:Newspress)拡大
1963年のイギリスGPでトップチェッカーを受けるジム・クラーク。この年、クラークは熟成の進んだ「ロータス25」を武器に7勝を挙げ、ドライバーズタイトルに輝いた。(写真:Newspress)
1963年のイギリスGPでトップチェッカーを受けるジム・クラーク。この年、クラークは熟成の進んだ「ロータス25」を武器に7勝を挙げ、ドライバーズタイトルに輝いた。(写真:Newspress)拡大

ファンジオの記録を超えた直後の死

クラークはその生涯において、2度にわたりチャンピオンとなっている。2度目のタイトル獲得は1965年で、この年はインディ500でも優勝し、アメリカにも名声は鳴り響いた。とはいえ、「F1史上最高のドライバー」とも称される実力からすれば、それは物足りない成績かもしれない。1962年と1964年にもチャンスはあったが、マシンのトラブルで惜しくもタイトルを逃している。1967年には年間4勝を挙げたが、2勝にすぎなかったデニス・ハルムに得点で及ばなかった。

サーキットの外では、クラークは常に温厚で礼儀正しい青年だった。極端にシャイな性格で、爪をかむクセがあり、パーティーでは会場の片隅でひとりジュースを飲んでいたという。自ら前に出ることをしない彼の能力を開花させたのは、コーリン・チャップマンだった。ふたりは兄弟のように仲がよく、レース期間中はいつも一緒にホテルのツインルームに泊まっていた。彼らは四六時中レースについて語り合い、スピードを追求していった。

1968年シーズンのロータスは、第1戦の南アフリカGPでワンツーフィニッシュを果たすという、最上の成績でスタートした。1位はクラーク、2位は前年にロータスに戻り、チームメイトとなっていたグラハム・ヒルである。名機「49」とコスワースDFVエンジンの組み合わせは最強と目され、ロータスの優位は明らかだった。クラークの勝利数は通算25となり、ファンジオの記録を超えた。

しかし、第2戦の前にホッケンハイムで行われたF2のレースに参加したクラークは、高速コーナーでクラッシュして即死する。32歳。あまりに若い死だった。

1965年のF1では、クラークはインディ500のために欠場したモナコを除き、初戦から6連勝。早々に年間タイトル獲得を決めた。(写真:Newspress)
1965年のF1では、クラークはインディ500のために欠場したモナコを除き、初戦から6連勝。早々に年間タイトル獲得を決めた。(写真:Newspress)拡大
インディ500で優勝を果たしたジム・クラーク(中央)と、コーリン・チャップマン(右)。
インディ500で優勝を果たしたジム・クラーク(中央)と、コーリン・チャップマン(右)。拡大
クラークのライバルであるグラハム・ヒルは1967年にロータスに復帰。コスワースDFVを搭載した「49」の開発に携わった。
クラークのライバルであるグラハム・ヒルは1967年にロータスに復帰。コスワースDFVを搭載した「49」の開発に携わった。拡大
1968年の南アフリカGPで優勝し、ついにファンジオの勝利数を超えたクラーク。彼にとって、これが最後のF1での勝利となった。
1968年の南アフリカGPで優勝し、ついにファンジオの勝利数を超えたクラーク。彼にとって、これが最後のF1での勝利となった。拡大

あまたの死を目にしたスチュワートの決意

F1は転換期を迎えていた。コスワースDFVが汎用(はんよう)エンジンとして普及し、小規模なチームでも参戦できる環境が整う。スポンサー契約が解禁されてビッグマネーが流れ込むようになり、商業的成功の基盤が築かれていった。クラークが亡くなった1968年は、彼のチームメイトであるヒルがドライバーズタイトルを手にし、コンストラクターズタイトルも「ゴールド・リーフ・カラー」のロータスのものとなった。

時代はさらに先に進む。ロータスではヨッヘン・リントが力をつけ、ヒルを脅かすようになる。ケン・ティレルのチームでは、ジャッキー・スチュワートが速さを見せつけるようになっていた。彼はスコットランド人で、クラークの持っていた“フライング・スコット”の名を継ぐことになる。

スチュワートは1969年、1971年にチャンピオンとなる。1973年にも5勝を挙げて3度目のタイトルを決めたが、通算100戦目となる最終戦アメリカGPでは、決勝を走らず、F1から引退した。予選でチームメイトのフランソワ・セベールが事故死したことに衝撃を受けたのだ。

同郷の先輩クラークの死を経験し、1970年にはリントがイタリアGPで事故死するのを目の当たりにしていた。スチュワートは現役を退いてから、新たな使命を自らに課す。危険なレースを根絶するための活動である。多くの偉大なドライバーの死を乗り越え、F1では、現在もレースを安全なものにするための努力が続けられている。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

ロータスは、1968年のスペインGPからマシンの外装にインペリアル・タバコのスポンサーカラー「ゴールド・リーフ・カラー」を採用し始めた。同社がロータスの個別スポンサーとなったためで、F1商業化の象徴的な出来事となった。
ロータスは、1968年のスペインGPからマシンの外装にインペリアル・タバコのスポンサーカラー「ゴールド・リーフ・カラー」を採用し始めた。同社がロータスの個別スポンサーとなったためで、F1商業化の象徴的な出来事となった。拡大
1967年のインディ500で談笑する、ジャッキー・スチュワート(左)とジム・クラーク(右)。1969年、1971年、1973年と3度にわたりドライバーズタイトルに輝いたスチュワートは、クラークと同じスコットランドの出身だった。
1967年のインディ500で談笑する、ジャッキー・スチュワート(左)とジム・クラーク(右)。1969年、1971年、1973年と3度にわたりドライバーズタイトルに輝いたスチュワートは、クラークと同じスコットランドの出身だった。拡大
1973年のモナコGPにてランデブー走行する、ティレルのスチュワート(手前)とフランソワ・セベール(奥)。セベールは同年のアメリカGPで事故死。あまたのドライバーの死を目にしてきたスチュアートは、引退後、F1の安全性向上に尽力した。
1973年のモナコGPにてランデブー走行する、ティレルのスチュワート(手前)とフランソワ・セベール(奥)。セベールは同年のアメリカGPで事故死。あまたのドライバーの死を目にしてきたスチュアートは、引退後、F1の安全性向上に尽力した。拡大
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