第81回:衝撃の日本グランプリ
“スカイライン伝説”を生んだ熱い戦い
2020.08.13
自動車ヒストリー
あまたの自動車メーカーがグリッドを飾った、黎明(れいめい)期の日本グランプリ。なかでも血道を上げてレースに臨んだのが、今はなきプリンス自動車だ。その技術力を世に知らしめたポルシェとの戦いを、「スカイラインGT」や「R380」といった名車とともに振り返る。
レースの勝利が売り上げを伸ばす
「グランプリ」とは、国や地域で一番上位のレースを指す言葉だ。日本グランプリはわが国最高峰の自動車レースであり、現在ではF1世界選手権の中の1レースとして開催されている。しかし、始まった時はそうではなかった。1963年、前年にできたばかりの鈴鹿サーキットで開催された戦後初の本格的な四輪レースが、第1回日本グランプリである。ホンダがF1に初参戦するのは翌年であり、当時、多くの人はF1の存在すら知らなかった。それどころか、自動車でレースをするということ自体が目新しかった時代である。
国際スポーツカークラスにはロータスやフェラーリ、ポルシェなどが参加したが、ほとんどはツーリングカーのレースだった。自走してクルマをサーキットに持ち込み、ナンバーを付けたままレースに参加する者も多かったらしい。自動車メーカーもモータースポーツの経験は浅く、手探り状態でのスタートだった。それでも2日間で20万人以上の観客を集め、自動車への関心が高まっていることを示した。
華々しい成績を収めたのはトヨタである。C-II、C-V、C-VIの3クラスで、それぞれ「パブリカ」「コロナ」「クラウン」が優勝したのだ。これを受けてグランプリ優勝キャンペーンを展開し、技術の高さとクルマの優秀さをアピールした。販売成績は向上し、レースの勝利が商品としてのクルマの売れ行きに貢献することが証明される。翌年の第2回グランプリに向け、各メーカーは本気で開発に取り組むことになった。
なかでも、目の色を変えたのはプリンス自動車の開発陣である。航空機メーカーにルーツを持つ彼らは技術に絶対の自信を持っていたが、「スカイライン」と「グロリア」で参戦して惨敗を喫した。市販車そのままでは勝てないということを痛感し、エンジニアたちはレースに向けてクルマを仕立て直すべく努力を重ねていく。
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ファミリーカーに6気筒エンジンを押し込む
エンジンをチューニングし、1500ccクラスのスカイライン、2000ccクラスのグロリアはライバルたちを圧倒する性能を得た。雪辱に燃えるエンジニアたちは、もっと上を目指す。GTクラスでも勝利を得ようと考えたのだ。しかし、そんなマシンはプリンス自動車のラインナップには存在しない。スカイラインの開発責任者だった櫻井眞一郎は、シンプルな解決策を思いつく。スカイラインに、グロリアのエンジンを載せてしまえばいい。
スカイラインは“メンテナンスフリーのファミリーカー”というコンセプトでつくられたクルマである。4気筒エンジンを搭載することを前提に設計されており、6気筒エンジンを載せるにはそもそも寸法が足りない。そこで採用されたのが、またしてもシンプルな手法だった。鼻先を20cm伸ばし、無理やり押し込んでしまったのだ。
バランスを考慮した設計変更ではないから、操縦性は悪化する。ボディー剛性が低下しているので、ステアリングを切ってもすぐには曲がらない。補強して剛性を確保すると、今度はリアのサスペンションが暴れる。なんとかそれも抑えこんで、パワフルな6気筒スカイラインをつくり上げた。ホモロゲーションを得るために100台を手づくりし、「スカイラインGT」が誕生する。
1964年5月2日から2日間、第2回日本グランプリが開催された。前年とはまったく様相が異なり、ほとんどの自動車メーカーが全力で勝利を目指して戦った。プリンスはツーリングカーのT-VとT-VIクラスで優位に立つ。1001cc~2000ccで争われるGT-IIでも、圧勝が予想されていた。しかし、大会直前にその思惑は崩れ去ってしまう。式場壮吉が、「ポルシェ904」で参戦することがわかったのだ。
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生沢 徹と式場壮吉の名勝負
ポルシェ904は、「550」の後継を担うミドシップのレーシングスポーツカーである。公道も走ることはできるが、もともとはGT2クラスのレースに参戦するためにつくられたモデルだ。180馬力の水平対向4気筒エンジンを積み、車重はわずかに650kg。対するスカイラインは日本初の3連装ウェーバーキャブレターを備えるものの、最高出力は125馬力で車重は1tを超える。しょせんファミリーカーがベースであり、生粋のレーシングマシン相手では到底勝ち目はなかった。
予選2日目、アクシデントが発生する。ポルシェ904が1コーナーでクラッシュし、ノーズが大破したのだ。ペダルを調整するケーブルが切れ、ブレーキが利かないままガードレールに激突。FRP製のボディーは無残に破れ、原形をとどめていなかった。決勝での走行は不可能と思われたが、徹夜の作業でボディーを貼り合わせ、ギリギリでグリッドにつくことができた。
3番目のポジションからスタートした904は瞬発力を生かして1コーナーでトップに立つ。生沢 徹の乗るカーナンバー41のスカイラインGTが必死に追いすがった。周回を重ねても、2台の差は思ったほどには広がらない。904は外面は修復できたものの、クラッシュによるシャシーの損傷は完全には直っておらず、直進すら難しい状態だったのだ。
そして7周目、大事件が発生する。ホームストレートに戻ってきた生沢のスカイラインGTが、後ろにポルシェ904を従えていたのだ。国産車が世界最先端のスポーツカーを抜いたという光景を目の当たりにし、グランドスタンドの観客は総立ちとなった。次の周で式場は生沢を抜き返し、最終的には大差をつけて優勝した。それでも、一瞬でもスカイラインがポルシェを抜いたという事実は観客の脳裏に焼き付けられ、伝説となって語り継がれていくことになる。
「R380」で打倒ポルシェを目指す
圧倒的な性能差にもかかわらずスカイラインがポルシェの前に出たことは、さまざまな臆測を呼んだ。いわゆる密約説である。当時のレーシングドライバーたちはライバルでありつつも仲間意識を持っていて、生沢、式場を含め、浮谷東次郎、杉江博愛(後の徳大寺有恒)らは仲のよい友人だった。生沢に頼まれて式場がわざと先に行かせたという話がまことしやかにささやかれた。
実際、レース前にそんな会話があったことは両人が認めている。しかし、それはただの冗談で、周回遅れの「トライアンフTR-4」を抜きあぐねていた式場のスキを突き、生沢がトップを奪い取ったというのが真相だという。ただ、すぐに抜き返せるのにホームストレートを過ぎるまで待ったという側面はあったらしい。
翌日の新聞には「泣くなスカイライン、鈴鹿の華」と見出しが躍った。世界に伍(ご)して戦えるクルマが現れたことに、日本人はプライドを刺激された。ホモロゲーション用につくられたスカイラインGTはすぐに売り切れ、翌年には新たに「スカイライン2000GT」が市販されて大人気となる。それでもプリンスは敗北を正面から受け止め、打倒ポルシェを目指してプロトタイプレーシングカーの「R380」を開発する。1966年の第3回日本グランプリでは優勝を飾り、見事に雪辱を果たした。
その直後の8月、プリンス自動車は日産自動車に吸収合併される。プリンスという社名は歴史の表舞台から姿を消したものの、R380でのレース活動はそのまま引き継がれ、「R381」「R382」へと発展していった。そして1969年、日産スカイラインのラインナップに6気筒エンジンを搭載した「GT-R」が加わった。開発を行ったのは櫻井眞一郎で、載せられたエンジンS20型はR380用につくられたものをベースとしていた。
スカイラインGT-Rは長い中断をはさみつつも代を重ね、2007年には「日産GT-R」として新たな一歩を踏み出した。「ポルシェ911」に拮抗(きっこう)する高性能車として、世界が注目するモデルである。栄光への軌跡をたどると、すべての始まりは1964年の日本グランプリにあった。生沢と式場が繰り広げた伝説のレースが、エンジニアたちの闘争心をかきたてたのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。