第80回:フィアット帝国の光と影
世界を志向したドメスティック企業
2020.07.30
自動車ヒストリー
創立は1899年と、世界的に見ても長い歴史を持つ自動車メーカーのフィアット。文化的にも経済的にもイタリアを代表する企業だが、今日に至るその歩みは、常に世界を志向していた。歴史に翻弄(ほんろう)されながらも、したたかに成長を続けてきた足跡を振り返る。
世界第4位の自動車メーカーへ
2020年7月15日、フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)とプジョーS.A.(グループPSA)は、対等合併後の新たな企業グループが「STELLANTIS(ステランティス)」という名になることを発表した。2019年10月31日に経営統合に向けた協議を始めることで合意してから、順調に話し合いが進んでいるようだ。このまま進展すれば、フォルクスワーゲングループ、トヨタ、ルノー・日産・三菱アライアンスに次ぐ世界第4位の自動車グループが誕生することになる。
フィアットは、これまでにも世界的な自動車産業再編の動きに関わってきた。1990年代に経営状況が悪化し、2000年にゼネラルモーターズと提携する。しかし、成果を残すことはできずに2005年に関係解消。2004年に社長に就任したセルジオ・マルキオンネの手腕で少しずつ状況は改善し、2009年には反攻に出る。経営危機に陥っていたクライスラーに資本参加したのだ。クライスラーはダイムラーとの合併が失敗に終わった後、リーマンショックに端を発する世界金融危機に見舞われて経営破綻していた。
再建途上にあったフィアットが瀕死(ひんし)のクライスラーに手を差し伸べた形で、“弱者連合”を疑問視する声もあった。しかし、マルキオンネは剛腕で財務を好転させ、2014年にはクライスラーを完全子会社化。ロンドンに本社を置くFCAを発足させた。イタリア文化そのものであるフィアットがアメリカの会社と組むことには違和感を持たれそうだが、古くから両者には深い関係があった。初期のフィアットは、アメリカに人材を派遣して自動車文化を学び、効率的な生産方式を取り入れている。アメリカから技術を取り入れ、東ヨーロッパや中南米に製品を輸出するという戦略をとってきたのだ。
2018年にマルキオンネは病に倒れるが、フィアットは拡大路線を堅持。2019年春に提案したルノーとの経営統合は不発に終わったが、ターゲットを変更して半年後にはグループPSAとの話をまとめた。イタリア文化を体現する存在だったフィアットは、ヨーロッパ全域とアメリカを結ぶグローバルな企業に生まれ変わったのである。
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トリノで創業し、イタリアに帝国を築く
フィアットという名称は、Fabbrica Italiana Automobili Torinoの略で、直訳すれば「トリノのイタリア自動車製造所」ということになる。1899年7月1日、トリノのブリケザリオ伯爵家に集まった9人の名士が自動車会社設立の書類に署名したことが、すべての始まりだった。
養蚕業を営んでいたジョバンニ・アニエッリもメンバーのひとりである。彼はフィアット社の株を3%所有していたにすぎなかったが、自動車事業に対する考え方は他の8人に比べてはるかに意欲的だった。アニエッリは参加するにあたり、「将来の展望の上に立って、真剣に会社運営を行う」よう注文をつけた。多くのメンバーが自動車をつくってレースに参加したいという程度の考えだったのに対し、彼はヨーロッパを席巻しているフランスの自動車会社に打ち勝つことを目指していたのだ。
事業が始まると、アニエッリが先頭に立って計画を推し進める。工場建設に適した土地を自ら探し、設備を買収して自動車生産を始めた。レースで勝利を重ねてフィアットの評判を高め、1902年にアニエッリは代表権を持つ取締役に就任する。1906年にはフィアット社を一度解散して資本金900万リラで新たに会社を興すという荒業を使い、経営権を完全に掌握した。
その直後にイタリアは深刻な不況に陥り、粉飾決算のスキャンダルなどもあって倒産の危機に見舞われる。しかし、アニエッリには運があった。1914年から始まった第1次世界大戦が、莫大(ばくだい)な利益をもたらしたのだ。軍用自動車や兵器を製造し、飛行機や船舶の生産にも手を伸ばした。さらに製鉄業や電気、保険や銀行にも業務を広げ、フィアット帝国とも呼ぶべき一大コングロマリットを築き上げていく。
自動車生産を近代化するためにつくられたのが、リンゴット工場である。トリノの北に建設された5階建てのビルで、らせん状のスロープを使って1階から上に向かって組み立てを進めていく仕組みだった。屋上には一周1.1kmのテストコースが備えられている。当時は世界最大の工場といわれ、フォードから学んだ最新のオートメーションで効率化を図っていた。
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戦災を乗り越えて規模を拡大
前途は順風満帆と思われたが、フィアットは政治の波に飲み込まれることになる。イタリアではファシスト党が勢力を伸ばしており、ムッソリーニが権力を握りつつあった。1920年代は、フィアットとムッソリーニがそれぞれの利益のために手を結んだ時代だった。フォードはイタリアに工場を建設することをもくろんでいたが、アニエッリはムッソリーニに働きかけて進出を阻止。フィアットはファシスト政権の保護を受けて、自動車生産を飛躍的に伸ばし、重工業部門でも巨大な力を蓄えた。
アニエッリは最終的にファシスト党員になるが、彼自身はムッソリーニに政治的共感を寄せていたわけではないらしい。彼の興味は、会社を存続させ、拡大することにあった。実際、ムッソリーニの意向に沿わない事業も行っており、1939年にはフランスに2000台の軍用トラックを輸出。イギリスには飛行機のエンジンを売り、ハンガリーやスペインに戦闘機を供給した。まだ戦争は始まっていなかったとはいえ(イタリアの宣戦布告は1940年6月である)、敵となる可能性の高い国に武器を輸出したことになる。
また、戦争末期に枢軸国側の敗色が濃厚になると、フィアットは将来を見据えて周到な作戦をとった。当時のフィアットはドイツの支配下で兵器を生産していたが、実際に出来上がった製品の数は、工場の生産能力をはるかに下回っていた。一方でひそかにパルチザン活動を支援し、連合軍と接触を持った。ドイツ軍に面従腹背で接し、解放の日を待ったのである。作戦は功を奏し、アニエッリは対独協力者として非難されることを免れた。フィアットも企業として存続することが認められる。計画の成就を見届けたアニエッリは、1945年12月に79年の生涯を閉じた。
アニエッリの息子のアンドレアは若くして飛行機事故で亡くなっており、孫のジャンニはまだ若かった。フィアットを率いることになったのは、アニエッリの腹心の部下だったヴィットーリオ・ヴァレッタである。彼は戦時中からすでに実質的なフィアットの舵取りを行っていた。ヴァレッタは戦争で打撃を受けた会社を見事に立ち直らせ、1946年に5000台だった自動車生産を、20年後の1966年には170万台にまで引き上げる。フィアットグループは、イタリア経済の潜在工業力の11%を占めるようになっていた。
政治と商売を分けて考える伝統
ヴァレッタから経営を引き継いだジャンニ・アニエッリは、労働者のストライキに苦しめられることになる。イタリアは驚異的な経済発展を遂げていたが、それは南部の農民が北部の工場で働くことによって支えられていた。労働強化と低賃金に対する不満は、過激な労働運動となって爆発する。争議は長く続き、ようやく解決したのは1971年である。生産性の低下は尾を引き、利益率は劇的に低下した。負債が積み重なって、危機的状況が訪れる。
ジャンニが選んだ方策は、奇想天外なものだった。リビアのカダフィ大佐からの出資を受け入れ、財務を健全化する道をとったのである。テロリスト国家と目されていたリビアと手を組むのは、危険な賭けとも思われた。しかしフィアットの株価は急上昇し、その後「パンダ」や「ウーノ」がヒットすることで経営は改善。政治と商売を分けて考えるという祖父の方針は、孫にも受け継がれたのだ。
こうした哲学はかねて取り組んできた海外進出にも見られる。フィアットは戦前から現地生産の意欲が強く、1934年にはフランスにシムカを設立してノックダウン生産を開始。ドイツでもNSUフィアットをつくっている。また西欧にとどまらず、ポーランドにも子会社をつくってライセンス生産を行った。戦後になるとスペインにセアトを設立し、冷戦下にもかかわらずやはり東欧に進出。ユーゴスラビア、ポーランド、ソ連に立て続けに工場を建設し、ライセンス生産を行っている。フィアットはイタリアのドメスティックな企業でありつつ、同時に早くからグローバル志向の強い体質を持っていたのである。
クライスラーを傘下に収め、グループPSAと統合する道を選んだのも、これまでのフィアットの歴史を見れば得心がいく。これは、いかにもフィアットらしい決断だったのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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