第25回:復活と再生のビートル
世界中で愛された国民車
2018.06.07
自動車ヒストリー
累計生産台数は2152万9464台。“ビートル”の愛称とともに世界中で愛されたフォルクスワーゲンの名車「タイプ1」は、いかにして生まれたのか? その数奇な“生い立ち”と、およそ60年にわたる稀有(けう)な歴史を紹介する。
国民車構想から生まれたKdF
第2次大戦でドイツの国土は荒廃し、産業は壊滅的な打撃を受けていた。自動車ももちろん例外ではない。連合軍の空爆は、工場をがれきの山に変えた。絶望的な状況の中から、奇跡のようにドイツの自動車産業はよみがえる。戦争が終結した1945年、5月の無条件降伏から年末までに、1785台の自動車が製造されたのである。
戦前、ナチスドイツは国民にレジャーを提供する組織「KdF」を作り、民族統合の機運を高めようとした。「Kraft durch Freude」の略称で、“喜びを通じて力を”という意味を持ち、日本語では歓喜力行団と訳される。
このKdFは、ヒトラーが1933年に発表した国民車構想に深く関与した。大衆に広くクルマを普及させる構想で、ヒトラーは優等民族であるドイツ人は誰もが豊かな暮らしを享受すべきであり、自動車を所有しなければならないと説いた。国民の歓心を買うための、人気取りとしての意味合いが強い政策だった。具体的な活動を担ったのがKdFである。1938年に国民車は「KdF-Wagen」(歓喜力行団の自動車)と名付けられ、ニーダーザクセン州には、生産の基盤を整えるべくStadt des KdF-Wagens(歓喜力行団の自動車市)が作られた。現在はヴォルフスブルクと改称され、フォルクスワーゲングループの本拠地となっている都市である。KdFは自動車購入のための積立貯蓄制度を設け、“自動車に乗りたいなら、毎週5マルク貯蓄しよう”と人々に呼びかけた。5マルクを払い込むとスタンプ帳に証紙が貼られ、満額の990マルクに達するとクルマを受け取ることができるという触れ込みだった。
しかし、KdFを受け取った人はひとりもいない。そもそも、生産すらされていなかった。工場で造られたのは「キューベルワーゲン」や「シュビムワーゲン」などの軍用車だけであり、30万人以上が登録して積み立てた自動車購入のための資金は、すべて戦争遂行のために流用された。
ドイツの敗戦で、初めて国民車構想が日の目を見ることになった。進駐していたイギリス軍のアイヴァン・ハースト少佐が焼け残っていた自動車生産設備を見つけ、残っていた金型で小型乗用車生産を再開させたのである。
小型車開発を志したポルシェ博士
戦前のモデルであるにもかかわらず、KdFは先進的な設計思想を持っていた。必要にして十分な性能を安価に提供するというコンセプトの見事な具現である。それも当然だろう。KdFはフェルディナント・ポルシェの作品なのだ。レースの世界で勇名をとどろかせていたポルシェ博士は、ファミリー向けの小型乗用車を開発する計画を持っていた。彼が属していたダイムラーではその構想は採用されず、独立してから発表したプロトタイプも、さまざまな困難に阻まれて生産には至らなかった。
ちょうどその頃、国民車構想を発表したヒトラーがポルシェ博士に設計を依頼する。目的は異なるものの、自動車に求める要件は不幸なことに一致していた。1936年には最初のプロトタイプ「VW3」を完成させ、1938年にはより完成形に近い「VW38」を披露している。ヒトラーが戦争を始めたのはその翌年で、量産化の目前でポルシェ博士の計画はまたもついえてしまった。
戦後ポルシェ博士が戦犯として収監されている間に、彼の手がけた画期的な小型乗用車はイギリス人の手によって命を与えられた。1946年までに1万台が生産され、1947年にはついに輸出が始まった。国民車にとどまらず、世界に向けた新世代の乗用車となったのだ。整備の手間の少ない空冷エンジンを採用し、RR方式をとることで室内空間を広くできる。軽量で丈夫な流線形のボディーを持ち、ハイウェイで100km/h走行を可能にしながら燃費がいい。世界で受け入れられる条件はそろっていた。
ちなみに、「ビートル」というのはそのかわいらしい形状から英語圏で付けられた愛称である。KdFの名はさすがに使えないので、フォルクスワーゲン本社ではシンプルに「タイプ1」と呼ばれていた。同じフロアユニットを用いたキャブオーバー型のトランスポーター、俗に「フォルクスワーゲンバス」と呼ばれるのが「タイプ2」である。後にエンジンや外観に小変更が加えられると、「フォルクスワーゲン1200」などの記号的な名称が付けられることもあった。
「T型フォード」を抜いて世界一の量産車に
1949年にはアメリカに進出する。大型車ばかりがもてはやされる国でも、ビートルは大きな人気を得た。小さくても安っぽくはなく、ヨーロッパの知的センスを感じさせる。燃費がよくて、故障は少ない。セカンドカーとしての需要が掘り起こされ、爆発的な売れ行きを示した。戦争で戦った相手であっても、優秀な製品であれば受け入れを拒む理由はない。
アメリカ以外でもビートルの人気は高かった。早くからブラジルやメキシコでの生産が始まり、世界中に輸出されていった。時代の変化に合わせて、さまざまな改良が加えられていく。当初1リッターだったエンジンは次第に拡大され、1960年代には1.3リッター、1.5リッターが主流となった。安全性を考慮してバンパーの形状が変更され、テールランプも大きくなった。1972年にはついに「T型フォード」が持っていた単一車種の生産記録1500万7033台を抜き、世界一の量産車に。最終的には2100万台を超える台数が生産された。
シンプルな構造だったので、改造は容易だった。1970年代のアメリカ西海岸では、キャルルックが流行した。カリフォルニアで流行したカスタムのスタイルである。車高を下げたりルーフを切り取ったりする改造を施してポップなデザインに作り変えたのだ。大排気量のエンジンに載せ換え、ドラッグレースを行うことが流行した。ピックアップやバギーに作り変えてしまうなど、原形をとどめない大改造も珍しくなかった。
本家でも、ビートルをベースに派生モデルが作られた。1948年には、早くもカブリオレをリリースしている。1955年には、カロッツェリア・ギアがデザインしたスタイリッシュなボディーを架装した「カルマンギア」がデビュー。性能的にはビートルとほとんど同じだったが、オシャレなクルマとして大ヒットした。
生産終了後も人々を引きつける魅力
生産開始から20年を経ても、ビートルは世界中で数十万台の規模で売れ続けていた。とはいえ、さすがに設計の古さが目立つようになる。フォルクスワーゲンでは新型車を模索していたが、偉大なパイオニアのビートルに取って代わるモデルは現れなかった。
ようやく世代交代を果たしたのは、初代「ゴルフ」が登場した1974年である。その後の世界のコンパクトカーの基準となった革命的なモデルのおかげで、ビートルは役目を終えることができた。1978年に西ドイツでの生産が終了する。しかし、国外ではシンプルで安価なベーシックカーがまだ必要とされていた。需要は落ちず、メキシコでは2003年まで生産された。
1994年のデトロイトショーに出品された「コンセプト1」は、来場者の目を驚かせた。それは、ビートルとそっくりな形をしたコンセプトカーだったのである。評判は上々で、1998年から「ニュービートル」の名で市販化された。ベースとなっているのは「ゴルフIV」だから駆動方式はFFで、RRだったビートルとはまったく別物だ。それでも、ダッシュボードに備えられた一輪挿しを引き継ぐなど、誰もがビートルの面影を感じられる工夫がこらされていた。世界中で愛されたビートルのイメージは、誕生から70年を経ても人々を引きつけてやまないのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。