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第32回:本田宗一郎
技術一筋で身を立てた男の夢と美学

2018.09.13 自動車ヒストリー 創立から短期間のうちに世界最大の二輪メーカーに上り詰め、四輪メーカーとしても、さまざまな製品や革新技術で世界を驚かせてきたホンダ。“世界のHONDA”を築き上げた偉人、本田宗一郎の半生を、さまざまなエピソードとともに振り返る。

テストライダーはモンペ姿

1946年、浜松の街をけたたましい音を立てて自転車が走った。乗っているのはモンペ姿の女性で、車体の後部には湯たんぽが取り付けられている。中には代用ガソリンの松根油が入っていて、陸軍の無線機発電用エンジンを動かしていた。これが、本田宗一郎が作った最初の“自動車”である。焼け野原の中でこのエンジン付き自転車は大人気となり、爆音のうるささから“バタバタ”と呼ばれるようになった。

本田宗一郎は、高等小学校を卒業後すぐに上京して自動車修理工場ででっち奉公を始める。浜松の農村で生まれた宗一郎は、8歳の時に初めて自動車を見て自分でもいつか作ってみたいと思っていた。東京の本郷湯島にあったアート商会は、その夢を実現するための第一歩だった。最初は子守ばかりさせられていたが、修理をまかされるようになると上達は早かった。彼は小学校6年生の時に蒸気機関を作って動かしたほどの機械マニアである。鍛冶屋のかたわら自転車屋を開業していた父の手伝いで、修理にも慣れていた。

自動車修理の技術を会得したことが認められ、21歳の若さでのれん分けを受ける。宗一郎は故郷に帰り、アート商会浜松支店を開業した。鉄製スポークの発明などで特許料を稼ぐようにもなり、25歳の時には50人もの従業員を抱える大工場に発展していた。本人の言うところの“第1次黄金期”なのだが、これから何度も浮き沈みを経験することになる。

修理業だけに満足できなくなってしまった宗一郎は、ピストンリングの製造に乗り出す。エンジンの内部で潤滑油を制御する部品で、高い精度と耐久性を求められる。周囲には猛反対を受けたが、彼は別会社の東海精機重工業を設立して日夜研究にいそしむ。3年後にようやく実用化のめどがつき、トヨタから3万本の注文が入った。しかし、サンプルとして提出した50本のピストンリングのうち、47本が不良品として突き返されてしまう。研究を重ねて28件もの特許を取得し、安定した製品を送り出せるようになったのはさらに2年後である。

“バタバタ”と呼ばれたエンジン付き自転車(1946年10月)。写真の個体では、燃料タンクは車体中央に装着されている。
“バタバタ”と呼ばれたエンジン付き自転車(1946年10月)。写真の個体では、燃料タンクは車体中央に装着されている。拡大
“バタバタ”に装備されたエンジンは、旧陸軍6号無線機発電用小型エンジンを改良したものだった。
“バタバタ”に装備されたエンジンは、旧陸軍6号無線機発電用小型エンジンを改良したものだった。拡大
「スーパーカブ」にまたがる本田宗一郎(1906-1991)。写真は1971年に鈴鹿製作所で行われた、二輪累計生産1000万台達成セレモニーでのもの。
「スーパーカブ」にまたがる本田宗一郎(1906-1991)。写真は1971年に鈴鹿製作所で行われた、二輪累計生産1000万台達成セレモニーでのもの。拡大
ホンダ の中古車

窮地を救った藤澤武夫との出会い

技術的問題は解決できたが、エンジニアの力ではどうすることもできない事態が迫っていた。1941年に太平洋戦争が始まり、統制経済の中で自由な研究開発は禁じられた。東海精機は軍需省の指示でトヨタから40%の出資を受けることになり、宗一郎は社長を退任する。終戦で平和が訪れても、日本経済は崩壊していた。宗一郎が苦心して開発したピストンリングの需要は皆無だった。彼は会社の持ち株を45万円でトヨタに譲渡し、闇酒のどぶろくを作って飲むばかりの生活を送った。

再起してバタバタを作ったのは1年後である。先の45万円で本田技術研究所を設立し、バラックの工場に工作機械を入れた。陸軍が残したエンジンを買い集め、客の持ってきた自転車に取り付けた。エンジンの在庫はすぐ底をつき、宗一郎はオリジナルのエンジンを開発する。1947年に生産を開始した2ストロークのA型エンジンは、50ccで0.5馬力という性能でよく売れた。世界のホンダは、ここから始まったのだ。

1949年に、3馬力のD型エンジンを搭載した本格的な二輪車「ドリーム号」を発売したが、売れ行き不振で資金繰りが悪化する。追い込まれたホンダに入社して危機を救ったのが、藤澤武夫だった。この後、“経営の藤澤”と“技術の本田”のコンビで会社を成長させていくことになる。銀行との交渉や販売店の拡大にたぐいまれな能力を示した藤澤のおかげで、宗一郎は技術開発に専念することができた。

OHVエンジンを載せた「ドリームE型」がヒットし、カブF型エンジンが成功したことで、ホンダは日本最大のオートバイメーカーになった。1958年には「スーパーカブ」が発売されて世界を席巻し、1959年にはオートバイレースの最高峰たるマン島TTレースに参戦する。わずか3年でチャンピオンとなり、名実ともに世界のトップメーカーに踊り出た。それでも本田宗一郎は満足していなかった。

「日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある」

TTレース出場に際し、1954年に彼は社員を奮い立たせるべくこう宣言した。そして、その目標を達成するためには、最終的に四輪車の世界でもトップを奪取する必要があると考えていた。

本田宗一郎設計のA型エンジンを搭載したエンジン付き自転車(1947年3月)。
本田宗一郎設計のA型エンジンを搭載したエンジン付き自転車(1947年3月)。拡大
「ドリームD型」(1949年8月)
「ドリームD型」(1949年8月)拡大
財務面や営業面でホンダを支えた藤澤武夫(1910-1988)。
財務面や営業面でホンダを支えた藤澤武夫(1910-1988)。拡大
「スーパーカブ」は今日でも生産が続けられており、2017年10月には累計生産台数が1億台を突破している。写真は最初期モデルの「スーパーカブC100」(1958年8月)。
「スーパーカブ」は今日でも生産が続けられており、2017年10月には累計生産台数が1億台を突破している。写真は最初期モデルの「スーパーカブC100」(1958年8月)。拡大
ホンダはマン島TTレースにおいて、参戦初年度の1959年にメーカーチーム賞を獲得。1961年には125ccクラス、250ccクラスともに1~5位を独占する完全勝利を収めた。写真は250ccクラスで4位に入った日本人ライダーの高橋国光。
ホンダはマン島TTレースにおいて、参戦初年度の1959年にメーカーチーム賞を獲得。1961年には125ccクラス、250ccクラスともに1~5位を独占する完全勝利を収めた。写真は250ccクラスで4位に入った日本人ライダーの高橋国光。拡大

50年を経て夢がかなう

しかし、実績のないホンダが自動車の製造に参入するには、高いハードルがあった。すでにトヨタや日産などの大メーカーが市場を押さえており、業界秩序が確立されつつあった。しかも、政府は新たな自動車メーカーの誕生を歓迎しない。1961年に通商産業省は特定産業振興臨時措置法案(特振法)を用意する。貿易の自由化を前にして、国際競争力を高めるために自動車メーカーを3つのグループに整理統合することを目指したのだ。当然、新規参入は認められないことになる。

自由競争主義者の宗一郎は強く反発し、1958年にスタートしていた四輪車開発を急加速させた。1960年に独立していた本田技術研究所で、軽四輪スポーツカーと軽四輪トラックを同時並行で製作し、1962年6月5日、建設中の鈴鹿サーキットで「S360」と「T360」を発表した。オープン2シーターのS360はともかく、トラックのT360にまで高性能なDOHCエンジンを搭載したところが、勢いのある新興メーカーらしい気概だった。

翌1963年の8月、ホンダ初の四輪車としてT360が発売され、10月には当初のモデルから排気量をアップしたスポーツカー「S500」がデビューする。価格は45万9000円で、予想をはるかに下回るバーゲンプライスだった。翌年、特振法は国会で廃案となり、ホンダの前途に立ちはだかる障害はなくなった。

S500はさらに排気量を拡大し、「S600」「S800」へと発展する。DOHCエンジンに4連キャブレターを装備したメカニズムは欧米で高く評価され、“時計のように精密”とたたえられた。ホンダは自動車レースの最高峰であるF1に挑戦し、2年目の1965年メキシコGPで初優勝を果たす。高い技術力を持つメーカーとして、瞬く間にブランドを確立したのだ。

ホンダ初の四輪市販モデルである「T360」(1963年8月)。軽トラックでありながら、非常に高性能な4気筒DOHCエンジンを搭載していた。
ホンダ初の四輪市販モデルである「T360」(1963年8月)。軽トラックでありながら、非常に高性能な4気筒DOHCエンジンを搭載していた。拡大
「S360」の市販モデルは軽規格の枠を超え、531ccのエンジンを搭載した「S500」(1963年10月)としてデビューした。
「S360」の市販モデルは軽規格の枠を超え、531ccのエンジンを搭載した「S500」(1963年10月)としてデビューした。拡大
「S500」に搭載された4気筒DOHCエンジン。44psの最高出力を8000rpmで発生した。
「S500」に搭載された4気筒DOHCエンジン。44psの最高出力を8000rpmで発生した。拡大
1965年のメキシコグランプリにて、チェッカードフラッグを受けるリッチー・ギンサーの「ホンダRA272」。ホンダにとって、F1デビューから11戦目での初優勝だった。
1965年のメキシコグランプリにて、チェッカードフラッグを受けるリッチー・ギンサーの「ホンダRA272」。ホンダにとって、F1デビューから11戦目での初優勝だった。拡大

空冷エンジンの成功と失敗

ただ、Sシリーズは2シーターのスポーツカーであり、販売台数は合計2万5000台ほどにすぎない。ホンダを量産メーカーに押し上げたのは、1967年に発売した軽乗用車の「N360」である。大衆向けのファミリーカーで、Sシリーズとはまったく異なるメカニズムを採用している。エンジンは4ストロークの空冷2気筒SOHCで、駆動方式はFFだった。他メーカーの多くが2ストロークエンジンだったのに対し、違うアプローチをとったのである。高回転型で31馬力を絞り出し、20馬力台前半だったライバル車を圧倒した。価格も安く設定し、発売2カ月で販売台数の首位に躍り出て、3カ月後には予約累計が2万5000台に達した。ライトバンの「LN360」やトラックの「TN360」という派生モデルも生み出し、累計生産台数は約70万台に及んだ。

N360は、二輪車で培った空冷エンジンの技術を生かして作られた合理的なクルマである。シンプルでコストのかからない空冷エンジンは、宗一郎にとって理想のクルマを作るのに欠かせない要素だった。新たに取り組んだ小型乗用車にも、この思想は受け継がれる。1969年、意欲的な技術を盛り込んだ「ホンダ1300」を発売する。

FFで四輪独立懸架を採用しており、エンジンは1.3リッターのオールアルミ製。4連キャブレター仕様では115馬力という高出力を誇った。一体構造二重壁空冷という複雑なメカニズムを持った画期的なエンジンである。満を持して市場に投入したが、結果は惨敗だった。振動と騒音が大きい空冷エンジン車は、クルマに洗練を求めるようになっていた当時のユーザーからそっぽを向かれたのだ。

F1に投入した空冷エンジンのマシンも不振を極めたが、宗一郎は空冷こそが理想のエンジンであるという考えを曲げなかった。市販車もF1も、あくまで空冷エンジンを改良することで状況を打開するように指示したのである。

若手エンジニアたちは、空冷エンジンはもはや古臭い技術で、未来がないと考えていた。排ガスによる大気汚染が問題となっていて、一酸化炭素(CO)や窒素酸化物(NOx)を低減することが喫緊の課題となっていた。冷却のコントロールが難しい空冷エンジンでは、排ガス規制をクリアすることができないというのが、若手エンジニアたちの共通認識だったのである。

水冷への移行を強硬に主張したのは、後に3代目社長に就任することになる久米是志である。宗一郎の一番弟子ともいえる河島喜好(2代目社長)も、空冷エンジンに反対した。

ファミリー向け軽乗用車の「N360」(1967年3月)。二輪で培ったエンジンの高い性能と、広い車内空間により、日本の軽乗用車の水準を大きく引き上げる存在となった。
ファミリー向け軽乗用車の「N360」(1967年3月)。二輪で培ったエンジンの高い性能と、広い車内空間により、日本の軽乗用車の水準を大きく引き上げる存在となった。拡大
大ヒットとなった「N360」にはさまざまな派生モデルが登場した。写真はライトバンタイプの「LN360」。
大ヒットとなった「N360」にはさまざまな派生モデルが登場した。写真はライトバンタイプの「LN360」。拡大
本格的な乗用車メーカーとなるべく、ホンダが肝いりで投入した小型乗用車の「1300」(1969年4月)だが、販売的には芳しい結果を残せなかった。
本格的な乗用車メーカーとなるべく、ホンダが肝いりで投入した小型乗用車の「1300」(1969年4月)だが、販売的には芳しい結果を残せなかった。拡大
「1300クーペ 7 GL」(1970年2月)。動力性能では高いパフォーマンスを示した「ホンダ1300」だが、振動や騒音の大きさがネックとなっていた。
「1300クーペ 7 GL」(1970年2月)。動力性能では高いパフォーマンスを示した「ホンダ1300」だが、振動や騒音の大きさがネックとなっていた。拡大
水冷エンジンの優位性を主張し、本田宗一郎と対立した久米是志(左)と河島喜好(右)。ともに、後に本田技研工業の社長を務めることとなった。
水冷エンジンの優位性を主張し、本田宗一郎と対立した久米是志(左)と河島喜好(右)。ともに、後に本田技研工業の社長を務めることとなった。拡大

意見が対立した若手に将来を託す

ついに副社長の藤澤武夫が動く。彼は宗一郎が開発を主導することが会社の発展に結びつくと考えていたが、今やその体制はむしろ新しい技術開発の妨げになっている。

藤澤は、刺し違え覚悟で宗一郎に面談した。若手エンジニアの危機感を説明し、公害対策のために水冷を採用するよう説得したのだ。宗一郎は自説を曲げなかったが、水冷のほうが開発を早めることができることは認め、若手に今後を委ねることに同意した。宗一郎と藤澤は、4人の専務に会社の将来を託すことを決断する。ふたりとも本社にはほとんど顔を出さなくなり、世代交代への準備を進めた。

1970年、アメリカでマスキー法が成立した。自動車に厳しい排ガス規制を課す法律である。ビッグスリーは反対運動を繰り広げたが、ホンダはむしろチャンスととらえた。CO、HC、NOxを同時に減らすという困難な課題をクリアすれば、自動車技術の最先端に踊り出ることになる。開発を進めたのは、久米、川本信彦(4代目社長)、吉野浩行(5代目社長)らだった。1972年にホンダはCVCCエンジンを発表する。アメリカでのテストでも規制値を下回り、CVCCはマスキー法に対応した初めてのエンジンとなった。この機構を搭載した「シビック」は大ヒットし、1973年のカー・オブ・ザ・イヤーに選出される。若手エンジニアたちは、ホンダの屋台骨を背負って立つ力を蓄えていたのである。

1973年、宗一郎は社長を退任し、藤澤も同時に副社長の職を辞した。ふたりは会長や相談役にもならず、最高顧問という象徴的な肩書だけを受け取った。宗一郎の指名で社長に就任した河島は、45歳の若さだった。ホンダの将来は、名実ともに次世代に託されたのだ。エンジンの開発で対立したエンジニアたちが、宗一郎の理想を引き継いだ。

「人に渡す時、これは肝心だな。人に渡すのにケチケチするのは私は嫌いだ。モタモタしてたんじゃ、みっともなくてしようがねェ」
引退直後の宗一郎の言葉である。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛/写真=本田技研工業)

 

「1300」の後継モデル「145」に搭載された1433ccの水冷4気筒OHCエンジン。一足早くデビューしていた「シビック」のエンジンをベースに、排気量をアップしたものだ。1300での失敗を踏まえ、ホンダも空冷エンジンを随時水冷エンジンに置き換えていった。
「1300」の後継モデル「145」に搭載された1433ccの水冷4気筒OHCエンジン。一足早くデビューしていた「シビック」のエンジンをベースに、排気量をアップしたものだ。1300での失敗を踏まえ、ホンダも空冷エンジンを随時水冷エンジンに置き換えていった。拡大
CVCCエンジンを搭載した「シビックCVCC DX」(1973年12月)。写真は量産第1号車である。
CVCCエンジンを搭載した「シビックCVCC DX」(1973年12月)。写真は量産第1号車である。拡大
CVCCエンジンは、吸気バルブとインジェクターの備わる副燃焼室で発生した火種を着火に用いることで、それまでのエンジンでは不可能だったリーンバーンを実現していた。
CVCCエンジンは、吸気バルブとインジェクターの備わる副燃焼室で発生した火種を着火に用いることで、それまでのエンジンでは不可能だったリーンバーンを実現していた。拡大
ホンダの歴史を紹介する博物館「ホンダコレクションホール」のエントランスを飾るオブジェには、本田宗一郎の直筆による「夢」の文字が刻まれている。
ホンダの歴史を紹介する博物館「ホンダコレクションホール」のエントランスを飾るオブジェには、本田宗一郎の直筆による「夢」の文字が刻まれている。拡大
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