第86回:美の巨匠ジョルジェット・ジウジアーロ
時代をデザインした早熟の天才
2020.10.21
自動車ヒストリー
自動車のみにとどまらず、さまざまな工業製品のデザインを手がけてきたイタルデザインの創始者、ジョルジェット・ジウジアーロ。初代「フォルクスワーゲン・ゴルフ」を筆頭に、あまたの傑作を世に送り出してきた天才の足跡をたどる。
ダンテ・ジアコーザに見いだされる
好むと好まざるとにかかわらず、ジョルジェット・ジウジアーロとまったく接点を持たずに暮らすことは困難だ。フォルクスワーゲン・ゴルフや「フィアット・パンダ」に乗っていなくても、日本車にも彼のデザインした製品はたくさんある。クルマだけではなく、バス、トラック、オートバイ、電車、船など、あらゆる乗り物が彼の守備範囲だ。
それどころか、家具や家電製品、楽器や時計もつくっている。メンズファッションのブランドを立ち上げたこともあった。新しいマカロニをデザインし、人工骨の形状についてアドバイス。要するに、ジウジアーロは世の中に存在するありとあらゆる工業製品に関わりを持っているのである。
ジウジアーロ家は、北イタリアのガレッシオという小さな町で、代々フレスコ画の制作を家業としていた。父も祖父も、教会や宮殿の装飾を手がけている。ジウジアーロは1938年に生まれ、美しいものに囲まれて育った。ちなみに、彼のファーストネームであるジョルジェットは、本来はジョルジュという名前の愛称である。しかし、彼の場合は役場に届け出た正式な名前がジョルジェットなのだ。家族から愛情を注がれていたことがよくわかる。
幼い頃から絵を描くことが好きで、教会のドームに天使の絵を描いたこともある。ある日、遊びに来ていた祖父の友人が、彼の才能を見抜いてトリノに連れて行くように進言した。芸術と文化に触れることで感覚を養えるよう、環境を整えるわけだ。ジウジアーロはトリノで中学に通い、卒業すると美術学校に進む。卒業制作で彼が描いたのは、自動車を扱ったカリカチュアである。学生たちの展覧会に訪れてこの作品を見たのが、ダンテ・ジアコーザだった。彼はジウジアーロにフィアット・スタイリング・センターに来るように勧めた。
カロッツェリアでの経験を経て独立
ジウジアーロは17歳でフィアットに就職し、働きながら自動車の製造に関する知識を身につけた。デザインだけでなく、どのようにクルマがつくられるのかを現場で学んだのだ。この時の経験が、後で大いに役立つことになる。彼は、昼はフィアットで働き、夜は美術学校に通った。自動車と美に関する知識と感性が、自然に育まれていった。
1959年になると、ジウジアーロは上級の美術学校に進むためにフィアットを退職する。学費を稼ぐため、夜は働かなくてはならない。仕事を紹介してもらおうと、つてを頼って相談したのがヌッチオ・ベルトーネだった。カロッツェリア・ベルトーネの総帥である。自動車のデザインと製造を手がける勢いのある企業で、ちょうどチーフデザイナーのフランコ・スカリオーネが辞めたところだった。ジウジアーロは、21歳の若さでその後をまかされることになった。
ただ、入社とほとんど同時に彼は兵役につかなければならなかった。訓練を受けながら上官たちのポートレートを描き、暇をみては自動車のスケッチにも精を出したという。作品はベルトーネ社に送られ、その中の一枚にヌッチオが目を留めた。スタイリッシュな2ドアクーペのデザインは、1963年に「アルファ・ロメオ・ジュリア スプリント」として世に出ることになる。
6年ほどのベルトーネ時代にジウジアーロがデザインしたクルマは20台以上。「シボレー・コルベア テスチュード」「アルファ・ロメオ・カングーロ」などのコンセプトデザインは、モーターショーに出品されて大きな反響を呼んだ。日本のメーカーとの最初の仕事となった「マツダ・ルーチェ」のデザインも、この時期である。こうしてベルトーネで順調にキャリアを重ねていったジウジアーロだが、不満もあった。彼の作品はカロッツェリア・ベルトーネのものとして扱われ、デザイナーとしての自分の名前が前面に出ることはなかったのである。
ドイツ・フォードからの要請を断り、移籍先に選んだのはカロッツェリア・ギアだった。27歳になっていたジウジアーロは、旺盛なデザイン活動を開始する。「デ・トマソ・マングスタ」「マセラティ・ギブリ」「いすゞ117クーペ」などを次々に送り出した。しかし、彼がギアにいたのは、わずか1年4カ月である。経営が傾いて社内が混乱し、落ち着いてデザインをしていられる状況ではなくなったのだ。
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画期的なスポーツカーと大衆車を生み出す
1968年、ジウジアーロは自らのデザイン会社を設立する。背中を押したのは、ベルトーネ時代からの友人である宮川秀之だった。トリノで設計事務所を経営していたアルド・マントヴァーニも加わり、イタルデザインが発足。ジウジアーロは、「近代的な大量生産に直結する、一貫したデザインプロセスを生み出せる組織をわれわれの手でつくろう」と意気込みを語った。自動車デザインを取り巻く状況が大きく変わりつつあることに、彼は気づいていた。
カロッツェリアとは、もともと馬車工房を意味する言葉である。自動車の時代が訪れても、彼らの技術は必要とされた。馬車と同様、豪華な一点もののボディーを製作することが求められたのだ。しかし、自動車は次第に大衆化。大量生産のシステムが普及し、またシャシーと外殻が一体となったモノコックボディーが出現する。一部の金持ち相手に手づくりで特別な乗り物をつくる職人仕事は、求められなくなった。
カロッツェリアは自動車メーカーと協同し、デザインを提案する役割を担うこととなった。ピニンファリーナ、ベルトーネ、ギアなどが、時代の流れに適応して存在感を高めていく。一部のカロッツェリアでは、製造設備を備えて量産までも請け負うようになる。ジウジアーロは、フィアット、ベルトーネ、ギアにおいて、その変化の真っただ中で働いていたのだ。メーカーとカロッツェリアの両方を経験し、自動車のつくり方を総合的にとらえる目を養うことができた。
イタルデザインの最初の作は、プロトタイプの「ビッザリーニ・マンタ」。量産車では「スズキ・キャリイ」が初の仕事で、軽の商用車という制約の中で、前後対称のユニークな形を提案した。この後も、スズキでは「フロンテクーペ」のデザインを担当している。また1971年には、イタリアの国策として進められていた「アルファスッド」が日の目を見、プロジェクトに関わっていたイタルデザインも本国での名声を確立した。
1972年のトリノショーで発表された「ロータス・エスプリ」のプロトタイプは、直線と平面で構成されたシャープでありながら洗練されたフォルムで人々を驚かせた。コーリン・チャップマンはすぐに量産化の指令を出す。ライトウェイトスポーツのイメージが強かったロータスは、スーパースポーツのメーカーへと変貌。エスプリは丸みを帯びた60年代のデザインとは一線を画す、70年代を代表するスポーツカーの一台となった。
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デザインの枠を超えた総合的な思考
1974年、フォルクスワーゲンから自動車の歴史を変える小型車が発売された。ビートルの後継車として、今も代を重ねているゴルフである。合理的でシンプルながら考えぬかれたデザインとパッケージングは、それ以降の小型大衆車のお手本となった。ジウジアーロは、デザインにとどまらずエンジニアリングやコスト面も含めて考えぬいた提案だったと話している。
1980年には、フィアット・パンダが登場。ゴルフ以上にミニマムなベーシックカーで、ボディーパネルやガラスはほぼ平面で構成されている。それでも十分な室内空間を確保し、新鮮なフォルムを実現していた。エンジニアリングを理解している彼だからこそ、新しいベーシックの概念をつくり上げることができたのだ。
日本のメーカーとの関わりも続いていた。1981年に発売された「いすゞ・ピアッツァ」は、2年前に「アッソ・ディ・フィオーリ」としてジュネーブショーに出品されたコンセプトデザインの量産モデルである。プロトタイプとほとんど変わらない姿で発売されたことは、ジウジアーロが生産工程までを考慮してデザインしていたことを物語っている。
2010年、イタルデザインはフォルクスワーゲンの傘下に入った。ジウジアーロはゴルフのみならず、「シロッコ」や「アウディ80」などのデザインも担当していて、両社はもともと関係が深かったのだ。現在では自動車メーカーが社内にデザインスタジオを抱えるのが常識になっており、この提携は自然な流れだったといえる。ジウジアーロが自身の設立したイタルデザインを去ったのは、それから5年後のことだ。カロッツェリアの役割はイタルデザイン設立時とは大きく変わっており、ジウジアーロは時代に合わせて自らの才能を最大限に生かせる方法を追い求めていた。
「多くの人々が喜ぶもの、それが美である」
かつてジウジアーロが語った言葉は、あまたの工業製品を手がけ、今も多数のプロジェクトに取り組んでいる彼の変わらぬ信念であり続けている。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。