第88回:F1戦国時代の熱狂
ホンダの世界制覇と“セナ・プロ対決”
2020.11.18
自動車ヒストリー
日本でも多くのファンをとりこにした、1980年代から1990年代のF1。四天王が覇を唱え、セナとプロストが競い合ったその時代に、“もう一人の主役”として活躍したのが、圧倒的な強さのホンダエンジンだった。あまたのドラマが生まれたF1熱狂の時代を振り返る。
1987年のF1ブーム
ホンダはF1世界選手権への参戦を2021年シーズンで終了すると発表した。2015年からマクラーレン、2018年からはスクーデリア・トロロッソ(現スクーデリア・アルファタウリ)、2019年からレッドブル・レーシングにパワーユニットを供給し、2019年シーズンは3勝、2020年シーズンもこれまでに2勝を挙げている。期待が高まっていた中での決定だった。
ホンダは1964年にフルワークス体制でF1に初参戦。自動車製造を始めたばかりのメーカーが世界最高峰の自動車レースに挑むのは無謀だと言われたが、1965年のメキシコGPで初優勝を果たす。しかし、この快挙は日本ではあまり大きなニュースにはならなかった。F1の価値を知っていたのは、一部のレースマニアだけだったのである。1950年のシルバーストーンサーキットで始まった由緒あるシリーズも、自動車の文化が根づいていなかった日本の人々にとっては遠い話だった。
しかし、1987年に突然状況が変わる。自動車にそれほど関心を持たない層にまでF1の名は知れ渡り、女性ファンが急増したのだ。立役者となったのがアイルトン・セナである。この年から、鈴鹿サーキットで行われる日本GPがF1カレンダーに加えられた。1976年と77年に富士スピードウェイでF1選手権が開催されて以来、10年ぶりのことである。ホンダは1983年からエンジンサプライヤーとして復帰。ホンダエンジンの性能は次第に向上し、1987年にはウィリアムズとロータスの2チームにエンジンを供給していた。
チーム・ロータスには、日本人初のレギュラードライバーとなる中嶋 悟が加入した。日本のエンジンに日本人のドライバーということで、一般マスコミにも大きく取り上げられる。彼のチームメイトが、ブラジル人のアイルトン・セナだった。天才的なドライビングテクニックを持つだけでなく、哀愁をたたえたルックスの彼は、またたく間に高い人気を得たのだ。
16戦中15勝の圧倒的な成績
F1ブームを後押ししたのは、テレビでの中継だった。深夜の録画放送ではあったが、フジテレビ系で全戦が放映されたのである。当時レース中継を担当していた古舘伊知郎がセナを“音速の貴公子”と呼び、その名は広く浸透した。
時はあたかもバブル景気のまっただ中。ジャパンマネーはF1をも席巻し、日本企業のロゴマークがマシンのボディーにおどっていた。不動産会社がまるごとチームを買収した例さえあったのだ。バブルの気分は華やかなF1の世界とマッチし、オシャレなイメージを発散していた。
ホンダのターボエンジンは、圧倒的な戦闘力を誇っていた。高速サーキットのシルバーストーンで行われたイギリスGPでは、1位から4位までをホンダエンジンを搭載したマシンが独占。ウィリアムズ・ホンダにはナイジェル・マンセルとネルソン・ピケという傑出した力を持つドライバーがいて、マシンの力をフルに引き出していた。ホンダ勢に対抗できたのは、マクラーレン・ポルシェに乗るアラン・プロストだけだった。
この年はネルソン・ピケがチャンピオンとなり、ウィリアムズ・ホンダがコンストラクターズタイトルを手にした。しかし、ウィリアムズとホンダの契約は終了し、翌1988年からホンダはマクラーレンにエンジンを供給する。そして、セナはロータスを離れてマクラーレンに移籍することになった。最強のエンジンと最強のドライバー2人を獲得したマクラーレンは無敵の強さを誇り、シリーズ16戦中15勝という圧倒的な成績を残したのだ。
鈴鹿を舞台にした“セナ・プロ”の接触劇
しかし、“プロフェッサー”の異名を持つプロストと天才肌のセナが並び立つのは難しかった。チームはエースドライバーを決めずに“ジョイントナンバーワン”という体制をとったが、両者とも自分が優先されるべきだと考えていたのだ。ふたりのバトルが毎回のように繰り広げられ、チーム戦略を築くことができていなかった。第13戦のポルトガルGPでは互いに幅寄せをするという明らかな妨害行為があり、対立は決定的なものとなる。
1989年、ふたりの確執はさらにヒートアップ。第2戦のサンマリノGPでセナがプロストをオーバーテイクしたことが、大きな問題となった。“スタート直後のコーナーまでは互いに勝負しない”という取り決めがあったが、その解釈がふたりで異なっていたのだ。セナが謝罪する形でいったんは和解するが、不協和音はおさまらなかった。シーズン途中でプロストはフェラーリへの移籍を発表する。
日本GPを控え、プロストは獲得ポイントでセナに対して16点リードしていた。逆転するためには、セナは鈴鹿と最終戦のオーストラリアGPで勝つしかない。予選では1.7秒の差をつけてセナがポールポジションを獲得するが、スタートでプロストが先行する。
そして47周目、シケインでセナがプロストのインを突くとプロストと接触。2台はコースアウトしてしまう。両者リタイアならばタイトルが決まるプロストはマシンを降りたが、セナは諦めずにレースを再開し、トップでチェッカーを受けた。しかし、コース復帰時にシケインを通過しなかったというレギュレーション違反により、彼は失格を宣告される。
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サンマリノGPの悲劇
1990年も、やはりセナ・プロ対決が続いた。セナがドライバーズポイントを9点リードして日本GPを迎え、今度は両者リタイアでセナのチャンピオンが決まる状況だった。前年の因縁を抱えたふたりがどんな戦いをするのか注目されたが、決着はあっけなかった。スタート直後のコーナーで2台が接触し、レースを終えたのである。セナは後にこの接触が故意だったことを認めている。
1993年にウィリアムズに戻ったプロストは、4回目のタイトルを獲得して引退した。翌年はセナがウィリアムズに移籍したが、第3戦のサンマリノGPで悲劇が起きる。高速コーナーでクラッシュし、帰らぬ人となったのだ。ホンダはすでにF1から撤退していたが、かつてのチームメイトを悼んで本社のショールームにはセナのマシンとヘルメットが展示された。
ホンダは2000年にF1に復帰し、2006年からはワークス体制となった。トヨタも2002年からF1に参戦し、日本の大メーカーが最高峰の舞台で覇を競うことになったのだ。しかし、両チームともめざましい成績を残すことができないまま、リーマンショックから始まる不況の波に飲まれる形で撤退してしまう。
ホンダはF1への参戦と撤退を繰り返してきた。2015年からの第4期はパワーユニットサプライヤーとしての挑戦だったが、7年で幕を下ろすことになる。「2050年カーボンニュートラルの実現」への取り組みを最優先することが撤退の理由だという。F1を取り巻く環境は劇的に変化しているが、セナとプロストが熱い戦いを繰り広げたホンダF1黄金期の記憶が色あせることはない。
(文=webCG/写真=フェラーリ、本田技研工業、モビリティランド、Newspress、webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。