第100回:日産のルーツとなったダットサン
国産車開発を夢見た苦闘の歴史

2021.05.12 自動車ヒストリー 戦前からの歴史を持ち、今日でもグローバルに活動を続ける日産自動車。そのルーツをさかのぼると、あまたのエンジニアが苦闘を続けた日本自動車産業の黎明(れいめい)期にたどり着いた。日産/ダットサンがたどってきた、複雑な合従連衡の歴史を振り返る。

快進社がつくった「DAT号」

2012年、日産はダットサンブランドの復活を発表した。1981年にグローバルなブランド名を“NISSAN”に統一する方針が定められ、以来“DATSUN”の名は消滅していたのだ。新しいダットサンは、新興国向けのエントリーブランドという位置づけで、2014年からインドやインドネシアでコンパクトカーの「GO」、ロシアでコンパクトセダンの「on-DO」などの販売を開始した。いずれも日本には導入されていない。

かつては日本でもダットサンは人気ブランドだった。「サニー」や「ブルーバード」はダットサンから登場したモデルである。アメリカでは“ダッツン”という発音とともに親しまれ、“ニッサン”よりも知名度が高かった。「ダットサン・トラック」は手軽で頑丈な小型商用車として世界中に輸出され、今でも庶民の生活を支えている。

そもそも、ダットサンというブランド名は、日産自動車という会社よりも長い歴史を持つ。ルーツをたどると、日本の自動車産業が生まれようとしていた時代に行き着くのだ。

1902年に農商務省の海外実習練習生としてアメリカに渡った橋本増治郎は、自動車の時代がやってくることを確信する。帰国後は工作機械工場や炭鉱で技師として働いていたが、その間も、欧米に追いつくために日本で自動車産業を起こすことを夢見ていた。1911年、橋本は東京・広尾に快進社自動車工場を設立する。ヨーロッパ車のボディー架装や整備・修理などを請け負いながら、国産乗用車づくりを目指したのだ。自動車をつくるには巨額の資金が必要になる。財界の有力者だった田 健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の支援を受け、橋本は日本の交通事情に合う小型乗用車を設計した。

最初は直列4気筒エンジンをつくろうとしたが、当時の日本には複雑な形状のシリンダーブロックを鋳造する技術がなかった。代わりにV型2気筒の10馬力エンジンを製造し、1914年に完成させたのが「DAT号」である。田、青山、竹内のイニシャルを組み合わせた名前で、脱兎(だっと)の意味も込められていた。DAT号は東京大正博覧会に出品され、銅杯を獲得する。

2013年7月にインドで発表された、「ダットサンGO」。新生ダットサン(DATSUN)では、“DAT”の由来はDream、Access、Trustの頭文字であると説明された。
2013年7月にインドで発表された、「ダットサンGO」。新生ダットサン(DATSUN)では、“DAT”の由来はDream、Access、Trustの頭文字であると説明された。拡大
日産は1958年から「ダットサン・トラック」の対米輸出を開始。簡便で丈夫な小型トラックとして浸透していった。写真は7代目の620型(1975年)。
日産は1958年から「ダットサン・トラック」の対米輸出を開始。簡便で丈夫な小型トラックとして浸透していった。写真は7代目の620型(1975年)。拡大
橋本増治郎(1875-1944)
日本自動車産業の先駆けとなった、快進社設立の中心を担った。
橋本増治郎(1875-1944)
	日本自動車産業の先駆けとなった、快進社設立の中心を担った。拡大
快進社の工場をラインオフする「DAT号」の第1号車(1914年)。
快進社の工場をラインオフする「DAT号」の第1号車(1914年)。拡大
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