第83回:キャロル・シェルビーの戦い
生粋のカーガイ 常勝フェラーリを倒す
2020.09.09
自動車ヒストリー
レースを愛し、スポーツカーを愛した生粋のカーガイ、キャロル・シェルビー。彼が挑んだのが、当時ルマン24時間レースで常勝を誇っていたフェラーリだった。1966年のルマンに至る経緯と、アメリカンモータースポーツ界に輝くレジェンドの足跡を振り返る。
養鶏業のかたわらレースを始めてF1へ
2015年のデトロイトモーターショーに、予告なしに1台のスポーツカーが現れた。「フォードGT」である。ミドシップの2シータークーペで、600馬力以上のパワーを持つ3.5リッターV6ツインターボエンジンを搭載する。ボディーは軽量化のためにカーボンファイバーとアルミニウムで構成され、ドアは跳ね上げ式を採用した。人々がこの新型車に熱狂したのは、高いスペックを持つスーパーカーだということだけが理由ではない。フォードGTという名前が、アメリカ人のプライドを刺激したのだ。
フォードGTは、1960年代にレースで活躍したレーシングカーをオマージュしたスポーツカーである。一般的には「GT40」という名で親しまれているが、これは車高が40インチ(約1m)しかないことから付けられた愛称だった。このモデルは、1966年にルマン24時間レースで優勝を果たしており、その後も1969年まで表彰台の頂点に立ち続けた。
フォードGTは、一人の偉大なカーガイの名前とともに記憶されている。キャロル・シェルビーだ。シェルビーはテキサス生まれで、ブーツとカウボーイハットがトレードマーク。若い頃からクルマとスピードが好きだったが、家業の養鶏が忙しく、レースには仕事を終えてから出かけなければならなかった。仕事着の青白ストライプのオーバーオールを着たままサーキットに行き、豪快な走りで勝利をおさめる姿が喝采を浴びた。
確かな腕が認められ、シェルビーはF1に挑むことになった。1958年にマセラティ、1959年にアストンマーティンでドライバーを務めたが、結果を残してはいない。彼が真価を発揮したのは、ルマン24時間レースである。1959年の大会に参戦し、アストンマーティンにルマン初優勝をプレゼントしたのだ。このニュースはアメリカにも伝えられ、彼はレース界のヒーローとなる。しかし、1960年になると彼はレーシングドライバーのキャリアに終止符を打った。持病の心臓病が悪化し、ハードなレースに耐えられなくなったのだ。
名車コブラの開発で名声を確立
引退はしたが、シェルビーの活躍はむしろそれから加速する。アメリカに帰ってレーシングコンストラクターのシェルビー・アメリカンを設立し、高性能なスポーツカーの開発に力を注ぐことになった。最初に手がけたのが「コブラ」である。イギリスのACカーズが販売していたロードスターにフォードの4.2リッターV8エンジンを載せ、マッスルカーに仕立てたのだ。ライトウェイトスポーツカーのシャシーにパワフルなエンジンを組み合わせたコブラは大人気となり、レースでも活躍する。
シェルビーは、1964年に発売された「フォード・マスタング」のチューニングにも関わっていく。フォードはハイパフォーマンスモデルの開発を彼に委ね、両者の関係は深まっていった。当時は自動車メーカーにとってスポーティーなクルマが重要な意味を持ち始めていた時期だった。免許を取得したベビーブーマーが自動車に求めたものは、何よりもスピードだったからだ。マスタングのほかにも、ジョン・デロリアンが企画した「ポンティアックGTO」や、クライスラーの「プリムス・バラクーダ」などが人気となる。1965年には延べ5000万人がレース観戦に押しかけ、4本のレース映画(『グラン・プリ』『栄光のルマン』『グレートレース』『レッドライン7000』)が撮影された。
サーキットで速さを見せつけることが販売成績に直結した時代である。強化策を練っていた1963年、フォードに耳寄りな情報が届けられた。フェラーリが資金不足に陥り、支援を求めているというのだ。ルマン24時間レースで1960年から連勝を続けている無敵のチームである。買収できれば、フォードのイメージは格段にアップするだろう。提携交渉が進められて契約寸前までいくが、土壇場でキャンセルされる。その直後、フェラーリとフィアットとの話し合いが行われていることが明らかになった。
ヘンリー・フォード2世は、この一件を自分たちが当て馬として利用されたのだと解釈した。フォードは、自力でイタリアのチームを打倒しようと決意する。プロトタイプカーを製造するためのフォード・アドバンスト・ヴィークル部門が発足した。1964年4月1日、第1号車が完成。長いノーズに短いテールを持つ空力ボディーで、排気量289立方インチ(4.7リッター)、最高出力350馬力のV8エンジンをミドに積んでいた。計算通りならば、フェラーリを上回るスピードが得られるはずである。しかし、6月のルマン24時間レースまでには、わずかな時間しか残されていなかった。
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豊富な資金でレーシングカーを開発
結果は無残だった。3台のフォードGTは、朝にはレースを終えていた。完走すらできなかったのである。トップ6のうち、5台がフェラーリだった。4位に入ったのは、シェルビーがつくった「デイトナ・コブラ」である。オープンカーのコブラをベースにクローズドボディーを与え、高速レース用に仕立てたマシンである。GTクラスではフェラーリをしのいで優勝を達成した。フォードにとって、シェルビーが唯一の希望だった。
1965年、フォードは新たなレース体制を発表。シェルビー・アメリカンがマシンの製造とレースを請け負うことが明らかになる。シェルビーからは、「マスタングGT350」と427立方インチ(約7リッター)のV8エンジンを搭載するコブラが発売されていた。ルマンを戦う新しいフォードGTも、427立方インチの巨大なエンジンを搭載する。レースでの勝利は、シェルビーにとってもビジネスチャンスなのだ。レースで名声を高めてロードカーを売るという方式は、フェラーリと同じだった。
シェルビーは、1950年代にフェラーリからドライバー契約を持ちかけられたことがある。しかし、彼が選んだのはアストンマーティンで、1959年に彼はドライバーとしてフェラーリを打ち破った。今度はコンストラクター同士の戦いである。慢性的な資金不足に悩むフェラーリと違い、シェルビーにはあり余る金を持ったフォードがついている。
1965年のルマン予選で最速を記録したのは、フィル・ヒルの乗るフォードGTだった。コーナーでは軽量なフェラーリに分があったが、ユノディエールと呼ばれる長いストレートではフォードが圧倒。本戦でも、最初の周回を終えてグランドスタンドに帰ってきたのは、フォードの2台だった。しかし、フォードのマシンはオーバーヒートやギアボックストラブルに苦しめられる。4時間後には、1位から4位までをフェラーリが占めていた。午後11時には、フォードGTは全滅した。
フォードGTでルマン優勝を勝ち取る
この敗北はシェルビーの立場を危うくした。ヘンリー・フォード2世は、シェルビーに「1966年フォード優勝」と書いたカードを渡した。勝利は絶対の義務となった。ルマンへの挑戦は続けるが、レースチームは2つに分けられてシェルビーはホールマン・ムーディーと競わされることになる。1966年のルマンには、シェルビー・アメリカンとホールマン・ムーディーから3台ずつ、アラン・マン・レーシングから2台の合計8台のフォードGTがエントリーした。フェラーリは7台体制である。
予選ではシェルビーのフォードGTが1位と2位を占めた。ラップタイムは3分30秒台という驚異的なもので、シェルビーがドライバーだった頃とは比べものにならないペースだった。レース開始から6時間後、フェラーリがトップの座を奪う。前年と同じドラマが繰り返されるかと思われたが、音を上げたのはフェラーリのほうだった。スピード競争の激化に対応が遅れたことは否定できない。夜明けを前にして、シェルビーのフォードGTが勝利することは確実になっていた。
フォードGTは、1966年のルマンで1位から3位を独占した。シェルビー・アメリカンは翌年もフェラーリに打ち勝って勝利を手にする。ロードカーのコブラとマスタングは、ルマンの勝利という付加価値を得てさらに人気を博した。1966年にはシェルビー・マスタングGT350が前年の4倍もの売れ行きを示し、翌年には、7リッターエンジンを搭載した「GT500」もラインナップに加わっている。
一方、ルマンの勝利で性能の高さをアピールできたと判断したフォードは、レース活動の縮小に向かった。シェルビー・アメリカンが手がけるマスタングのロードモデルも、パフォーマンスの向上よりスタイルの派手さを狙うことに重点が置かれるようになっていき、1969年モデルを最後にラインナップから消滅。同じ年、キャロル・シェルビーはレース活動からの引退を表明した。無邪気にスピードを追い求められる時代は、終わりを迎えようとしていた。
2006年、シェルビーGT500の名が復活する。ベースとなるマスタングは6代目となっており、初代を思わせるデザインをまとっていた。キャロル・シェルビーは84歳になっていたが、GT500のメカニズムやスタイルには彼の意見が反映されたという。フォードのハイパフォーマンスカーには、やはりシェルビーの名がふさわしい。アメリカ人が大好きなクルマは、今も昔も底抜けに明るいスポーツカーなのである。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。