第63回:時代を駆けるフォード・マスタング
トレンド商品からブランドを代表するアイコンへ
2019.11.28
自動車ヒストリー
若者向けのポニーカーとして、あるいはパワフルなハイパフォーマンスカーとして、1964年の誕生以来、ファンに愛され続けている「フォード・マスタング」。アメリカを代表するスペシャリティーカーはどのようにして誕生し、今日まで受け継がれてきたのか?
「T型フォード」以来の大ヒット
フォード・マスタングは、スクリーンの中で印象的な姿を見せている。1966年の『男と女』では、主人公のジャン・ルイがコンバーチブルを愛車にするとともに、競技用に仕立てたマシンでモンテカルロ・ラリーに出場していた。1968年の『ブリット』のカーチェイスは、映画史に残る名シーンだ。サンフランシスコの坂道で、「ダッジ・チャージャー」と死闘を繰り広げる。音楽もセリフも一切なく、V8エンジンの音だけが響く10分ほどの映像は、今見てもクールだ。
映画のせいもあってマスタングはマッチョなクルマというイメージで受け止められてしまいがちだ。しかし、成り立ちは違う。1960年代初頭、アメリカでは戦後生まれの若者が運転免許を取得する時期を迎えていた。いわゆるベビーブーマーである。全世代中で最大のボリュームとなる層に向け、自動車メーカーは新たな商品を開発する必要に迫られていた。それは、コンパクトで低価格でありながら、スポーティーな性能を持つクルマである。
マスタングは、1964年4月17日にデビューした。ニューモデルは9月に発表されるのが通例となっていたが、ライバルが動く前に実績をつくっておこうという思惑でデビューを早めたといわれる。小型車の「ファルコン」をベースに設計されたが、ロングノーズ、ショートデッキのスポーティーなスタイルはまったく別の魅力を備えていた。
クーペとコンバーチブルがあり、最も安いモデルは2368ドルだった。本体価格を抑えてフルチョイスシステムと称する幅広いオプションを用意し、V8エンジン、オートマチックトランスミッション、パワーステアリングなどを選べるようにした。
選択肢の豊富さで若者以外からの支持を集めることにも成功し、“T型フォード以来”といわれるほどのヒットを記録する。販売台数は1964年に半年で約12万台。通年で販売された翌1965年には、新たに加わったファストバックも含めて約56万台に達した。
豊富なオプションが人気に
マスタングのデビューに2週間ほど先駆け、クライスラーから「プリマス・バラクーダ」が発売されている。1967年には「シボレー・カマロ」、1970年には「ダッジ・チャレンジャー」が登場する。これらのクルマは、ポニーカーと呼ばれた。
ポニーとは小型の馬のことで、本格的な乗馬を始める前の子供に与えられる。若者が最初に手に入れるクルマを馬になぞらえたわけだ。コンパクトでスポーティーなボディーが架装され、ベース価格は2500ドルほど、豊富なオプションで自分好みのクルマに仕立て上げられる一連のクルマをそう呼んだ。ちなみにマスタングとは、小型の野生馬を意味する。
カマロはマスタングに後れを取ったが、GMにはそれ以前に、ポニーカーの原型となったモデルがあった。1959年に発売されていた「シボレー・コルベア」をベースに、バケットシートや4段フロアシフトなどでスポーティーに装った「モンザ」である。このモデルが好評なのを見て、フォードのリー・アイアコッカが指示してつくらせたのがマスタングだといわれている。
GMも同様に新たな小型スポーティーカーの構想を進めていたが、クレイモデルまでつくられたものの、プロジェクトは中止となった。モンザが十分な競争力を持っていると考えたからだ。しかし、マスタングが登場すると、またたく間にこのマーケットを独占してしまった。
人気を高めるのに、レースでの活躍も一役買った。立役者は、キャロル・シェルビーである。レーシングドライバーとしてルマンやF1に参戦した彼は、引退後にレース活動や車両の開発を手がけるシェルビー・アメリカンを設立した。1962年にはイギリスのACカーズのオープン2シータースポーツにフォードのV8エンジンを載せた「コブラ」をつくり出している。マスタングのイメージ向上のため、フォードはシェルビーにレース用の車両製作を依頼した。
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レースでの活躍でイメージアップ
SCCA(全米スポーツカー協会)のBプロダクションでレースを行うには、100台以上を製造販売することがホモロゲーション取得の条件となる。そのために用意されたのが「シェルビーGT350」だ。サスペンションを強化し、ボンネットをFRP製にするなどして軽量化を施したほか、レースの規定に合わせ、リアシートを取り除いて2シーターに仕立てていた。エンジンには4.7リッターのV8を搭載し、ボルグワーナーの4段マニュアルトランスミッションが組み合わされた。
もくろみどおりレースでは上位を独占し、マスタングは高性能車のイメージを確立する。GT350自体も人気となり、1965年に562台が生産された。翌1966年にはレンタカー会社のハーツから1000台の発注を受けたこともあり、生産台数は2380台に達した。
カマロが発表されたのは、1966年9月26日である。この頃のマスタングのベース価格が2510ドルだったのに対し2466ドルと安価で、ボディーサイズはわずかに大きかった。しかし、販売面ではマスタングをはるかに下回る。シボレーが販売促進のために考えたのは、やはりレースで好成績をあげることだった。
打倒シェルビー・マスタングを掲げてつくられたのが「Z28」である。このモデルの活躍もあってカマロは販売が伸び、1967年には20万台以上を売り上げた。ただ、この年マスタングは40万台以上の販売を記録しており、なかなか差は縮まらなかった。
シェルビー・マスタングの売れ行きは引き続き好調だったが、クルマの仕立ては少しずつ変わっていった。1965年モデルでは、剛性向上のための補強など、速く走るために多くの改造が施されていたが、外見上はノーマルモデルとさほど変わらなかった。1966年モデルでは性能の向上だけに血道を上げるのではなく、見た目のよさや快適さなどにも重点を置いた結果、前年を大きく上回る台数を販売した。この結果をふまえ、シェルビー・マスタングはより快適でより豪華な仕様へと変わっていった。1968年からは、生産の拠点もフォードのお膝元に移される。
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野生馬を存続させた変化
マスタングは1969年、カマロは1970年にモデルチェンジされ、ボディーは大型化し、エンジンパワーが増大した。時代はマッスルカーの流行を迎えていたのだ。一方でハイパワー車の存在を危うくする事態が進みつつあった。1967年から排ガス規制が始まり、安全基準も厳しくなっていた。野放図なパワー競争は不可能になっていく。
1972年の規制によるダメージは、とりわけ大きかった。最高で375馬力だったマスタングのパワーは275馬力まで落とされ、カマロZ28は360馬力から255馬力までダウンした。販売台数も目に見えて低下する。1966年に60万台を売り上げたマスタングは、1972年には7万5000台しか売れなかった。
これを受け、1974年に登場した「マスタングII」は一気にコンパクト化。搭載されたエンジンは、直列4気筒とV型6気筒だけだった。初めてV8エンジンの設定が消滅したのである。マッスルカーの時代を経て、パワーよりも外見でスポーティーさを表現する方法が定着したのだ。
それでも、ファンの間ではV8の不在は不満だったようで、1975年モデルで早くも5リッターV8エンジンがカタログに復活。1983年には、長らく廃止されていたコンバーチブルも設定された。また排出ガス対策にめどがつくと再びエンジンを高出力化し、ハイパフォーマンス路線へと回帰。一方で長きにわたり経済的な4気筒エンジンを設定し続けるなど、マスタングは幅広い要望に応えるスペシャリティーカーとして魅力を高めていった。
2014年4月17日、全米3カ所でマスタング50周年を祝うイベントが行われた。西海岸のラスベガス・スピードウェイと東海岸のシャーロット・スピードウェイに数千台のマスタングが集まり、ニューヨークでは50年前と同様に、エンパイアステートビル86階の展望台に実車が展示された。バラクーダは1974年に生産が終了し、カマロ、チャレンジャーはともに一時期生産が中断されている。ポニーカーの時代からブランドを継続させてきたのは、マスタングだけである。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。