第45回:日産フェアレディZ
巨大市場を席巻した新世代のスポーツカー
2019.03.21
自動車ヒストリー
日米を中心に、今もファンに愛されている「日産フェアレディZ」。自動車先進国アメリカのユーザーに新しいスポーツカー像を見せつけた一台は、どのようにして生まれたのか? 誕生に至る経緯を、“Father of Zcar”と呼ばれる人物の逸話とともに振り返る。
スポーツカーのビジョンを見せた片山 豊
MacintoshやiPhoneを生み出したのは、スティーブ・ジョブズだとされている。しかし、彼はエンジニアではない。初期のアップルは天才プログラマーのスティーブ・ウォズニアックが支えていたし、Macintoshプロジェクトを立ち上げたのはジェフ・ラスキンだ。ジョブズが示したのは、コンピューティングの未来である。ビジョナリーとして道を照らし出したことで、彼は今もなお語り継がれる存在となったのだ。
片山 豊も、同様な位置にいると言っていいだろう。彼はアメリカで「Father of Zcar」と呼ばれている。アメリカの販売網を整備してダットサンブランドを広めた功績が知られているが、日産本社では役員にもなれなかった。エンジニアでもデザイナーでもない彼が今も人々の記憶に残っているのは、スポーツカーのビジョンを見せたからだ。
片山が日産に入社したのは1935年。翌年の多摩川スピードウェイで行われたレースで、日産はオオタ号に敗れた。スポーツカーを量産したいという思いを持っていた鮎川義介社長の命を受けた日産チームは、スーパーチャージャーを装備したスーパーダットサンを開発し、翌年のレースでは勝利を飾っている。
その後軍用車両の生産に専念せざるを得なくなるが、戦争が終わると日産はいち早くスポーツカーの開発を始める。1952年に戦後初の国産スポーツカーとして「DC3」を発売するが、このクルマは戦前モデルの焼き直しにすぎなかった。
日産は小型セダンの開発に力を入れ、1955年にトラックシャシーを使った「ダットサン110」を発売する。1958年には1リッターOHVエンジンを搭載した「ダットサン210」となり、オーストラリアラリーに参戦してクラス優勝を果たす。片山も同行しており、モータースポーツでの活躍が大きな宣伝効果を持つことを目の当たりにした。
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ダットサンブランドをアメリカに広める
1959年にトラックとは別のシャシーを持った「ブルーバード310」が発売された。1961年には、その310をベースに1.5リッターエンジンを搭載したオープンカーの「SP310」シリーズがつくられる。最高速度155km/hを誇るスポーツカーは、1963年に行われた第1回日本グランプリでMGやトライアンフといったイギリス勢を破って優勝。日産は日本のスポーツカーの先頭を走っていた。
他の自動車メーカーも黙ってはいない。1963年にホンダが「S500」、1965年にトヨタが「スポーツ800」を発売する。1967年には「トヨタ2000GT」と「マツダ・コスモスポーツ」も登場した。日産も2リッターエンジンの「SR311」を投入するが、最新技術をつぎ込んだ他メーカーに比べると、後れを取ってしまった感は否めない。
この時期の日本の状況を、片山は直接見ていない。1960年から、彼はアメリカのロサンゼルスを拠点に活動していたのだ。当時の日産は商社に販売を委託していて、現地の状況を把握できずにいた。市場調査の名目で渡米を命じられた彼は、販売体制の不備を目にすることになる。戦後のアメリカではクルマが不足してヨーロッパ車の輸入が増加したが、ブームはすでに終了。アフターサービスを怠ったメーカーは在庫の山を築き、売れ続けていたのはしっかりとしたユーザーサポートを行っていたフォルクスワーゲンだけだった。
おざなりなやり方では存在感を示せないと考えた片山は、商社に頼らず自前の販売網を作ることを提案した。ロサンゼルスにアメリカ日産を設立し、副社長として西海岸での販売を担当する。最初は相手にされなかったが、地道に販売店をまわることで体制を整えていった。西海岸では次第に販売成績が向上し、1965年には片山がアメリカ日産社長に就任する。
クルマの品質も向上し、ダットサンの名は広く知られるようになっていく。セダンの売れ行きは好調だったが、片山は満足していなかった。ブランドイメージを上げるには、スポーツカーが必要だと考えたのだ。「フェアレディ1500」を「ダットサン・ロードスター」という名前で販売していたが、オープン2シーターではユーザー層が限られる。日常でも不便なく使うことができ、パワフルで運転が楽しいスタイリッシュなスポーツカーを売りたいと熱望していた。
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仮想敵はジャガーEタイプ
アメリカでは「ジャガーEタイプ」や「ポルシェ911」の人気が高かった。走行性能もスタイルも一級品だったが、価格が高くて誰もが購入できるようなクルマではない。性能が良くて安価なスポーツカーがあれば、必ずヒット商品になる。日本に帰るたびに、片山は日産本社で自らのプランを説明してまわった。共感を示したのは、設計部長の原 禎一と若手デザイナーの松尾良彦である。片山の考えは、次第に形になっていった。
もちろん、ひとりだけの思いでクルマができあがるわけがない。日産でも、さまざまなスポーツカーの計画が立てられていた。ヤマハからスポーツカーの共同開発の提案があり、「A550X」という試作車が作られたこともある。ほかにもいくつものプランがあったが、いずれも日の目を見ることはなかった。日産には「フェアレディ」と「シルビア」があり、新たなスポーツカーを開発する必要はないという声が大きかった。
原は、1967年6月8日に第1回次期型スポーツカー連絡会を開催し、開発をスタートさせる。見切り発車だったが、11月の常務会で正式に計画が承認された。1.6リッターの4気筒エンジンを搭載し、価格は2546ドルとする計画である。高性能版だけに2リッター6気筒を与えることになっていたが、市場の状況を調査した結果、実際にはすべてのモデルが6気筒になった。
仮想敵とされたのは、ジャガーEタイプ。ロングノーズ・ショートデッキの流麗なスタイルを持ち、4.2リッター直列6気筒エンジンでパワフルな走りを実現していた。価格は約6000ドルである。当時、「メルセデス・ベンツ280SL」は2.8リッターエンジンで7000ドル、「ポルシェ911T」は2.2リッターエンジンで6000ドルだった。
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手ごろな価格のスポーツカーとして人気が沸騰
アメリカではスポーティーな2ドアクーペというジャンルも活況を呈していた。「フォード・マスタング」や「シボレー・カマロ」などのポニーカーである。輸入スポーツカーと比べればはるかに安価だったが、大排気量V8エンジンを搭載するモデルともなると価格は5000ドル以上。安くて高性能なモデルを投入すれば十分に勝機があると、日産の開発陣は考えた。
新型スポーツカーの北米での販売価格は、3596ドルに決まった。1ドルが360円の時代で、採算をとるためには製造原価を64万円以下に抑える必要があった。できるだけ共通部品を多く使うなどの工夫でコストダウンを果たし、1969年にまず日本国内で販売が始まる。廉価版で84万円という価格設定にはお買い得感があり、好調な売れ行きを示した。
アメリカで発売されたのは1970年。国内向けは2リッターエンジンだったが、輸出用にはパワフルな2.4リッターを用意して万全を期している。アメリカのユーザーの反応は熱狂的だった。当初の北米での販売目標は月1600台だったが、発表直後に6000台を超えるオーダーが舞い込む。生産が間に合わず、1年分のバックオーダーを抱えることになった。1万ドルのプレミア価格を付けた販売店もあったという。
アメリカの自動車雑誌『ロード&トラック』の1970年1月号では表紙を飾り、「誰が2400cc SOHC 6気筒前輪独立懸架のGTクーペを3500ドルで提供できようか?」という絶賛記事が掲載された。アメリカでは「Datsun 240Z」として販売され、ユーザーは親しみを込めてZcarと呼ぶようになる。ベスト・バリュー・フォー・マネーのZは若者から圧倒的に支持され、初代モデルは9年間で55万台を売り上げた。
アメリカ車は日本の自動車メーカーにとって憧れであり、学ぶべき手本だった。立場は逆転した。Zはアメリカに新しいスポーツカー像を見せつけたのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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