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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第33回:『偉大なる失敗作』ホンダ1300(1969〜1972)(その2)
1968年10月、その年の日本の自動車界における最大の話題だった噂のホンダ大衆車は、「ホンダ1300」という素っ気ない車名を与えられて発表された。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第32回:『偉大なる失敗作』ホンダ1300(1969〜1972)(その1)
ホンダが四輪車市場に参入したのは、いまを遡ること41年、1963年のことである。 この分野では最後発だったホンダが、本格的な四輪メーカーへ脱皮するために、まさに社運を賭して開発、68年に発表したモデルが「ホンダ1300」だった。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第31回:『あまりにも不憫な』ダイハツ・アプローズ(1989〜2000)(最終回)
ダイハツとしては、できることなら“欠陥車”の烙印を押されてしまったアプローズをすっぱりと切り捨て、新型車を開発したかったのかもしれない。だがこうした販売状況では、とてもじゃないが開発コストの回収など見込めず、新規開発など望めない。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第30回:『あまりにも不憫な』ダイハツ・アプローズ(1989〜2000)(その4)
この一件がアプローズのセールスに与えた影響は甚大だった。翌90年1月の国内販売台数は500台未満と、それまでの月平均の半分を割り込んでしまい、その後も芳しくない数字が並んだ。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第29回:『あまりにも不憫な』ダイハツ・アプローズ(1989〜2000)(その3)
当初、ダイハツが掲げた月間販売目標台数は3000台。それには及ばなかったものの、本格的に販売が始まった8月から11月までは月平均1000台以上をキープしていた。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第28回:『あまりにも不憫な』ダイハツ・アプローズ(1989〜2000)(その2)
徹底的にパッケージングを追求し、優れた居住性と走行性能、そして経済性を実現したリッターカーの初代「シャレード」によって、ダイハツの小型車づくりの技術は、玄人筋には高く評価されていた。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第27回:『あまりにも不憫な』ダイハツ・アプローズ(1989〜2000)(その1)
不適切なクレーム対応の結果、メーカーが存続の危機さえ囁かれる事態に陥ることもあることは、先刻ご承知のとおり。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第26回:『さりげなさすぎ』マツダ・エチュード(1987〜89)(その4)
当時の日本には、マツダの考えたような都会派の“センシブル・ピープル”は1万人もいなかった、というと皮肉に聞こえるかもしれないが、事実としてエチュードが提案した「さりげない洒落っぽさ」に共感する人々は、それだけしか存在しなかったのである。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第25回:『さりげなさすぎ』マツダ・エチュード(1987〜89)(その3)
さてこのエチュード、当時はどんな評価を受けていたのだろうか。『Car Graphic』1987年4月号に掲載された試乗会におけるロードインプレッションを要約すれば、「エンジンはレブリミットの7000rpmまできれいに回り、5MTのギアリングは街中においても山坂道においても適切。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第24回:『さりげなさすぎ』マツダ・エチュード(1987〜89)(その2)
そうしたターゲットに向けて開発されたエチュードのデザインテーマは、「ルーミーでリッチなパーソナル空間」。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第23回:『さりげなさすぎ』マツダ・エチュード(1987〜89)(その1)
1987年、今はなきファミリアをベースに誕生したパーソナルカー「エチュード」。「都会派らしいさりげない洒落っぽさ」をテーマに掲げていたのだが、あまりにさりげなさすぎて、ライバルがひしめくマーケットに埋もれてしまったのだった。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第22回:『生まれてくるのが早すぎた』ホンダライフ・ステップバン(1972〜74)(その3)
そんな「ステップバン」だったが、いざ市場に出してみると販売は振るわなかった。当初の計画では、月産台数にして 2000台。当時ホンダは乗用車・商用車を合わせた軽自動車全体で月平均1万5000台以上、シェア20%以上をコンスタントに記録していたから、これはけっして無理な数字だったとは思えない。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第21回:『生まれてくるのが早すぎた』ホンダライフ・ステップバン(1972〜74)(その2)
判型がサイドビューそのものだったり、表紙が組み立て式の「紙のクルマ」だったりと、ステップバンのカタログも実車同様ユニークだったのだが、それらのカタログを開くと、ホンダが主張するとおりステップバンが新しいコンセプトを持つ商用車だったことがよくわかる。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第20回:『生まれてくるのが早すぎた』ホンダライフ・ステップバン(1972〜74)(その1)
1972年に新しいタイプの軽商用車として発売された「ホンダライフ・ステップバン」。商業的には成功作とは言いがたかったが、そのコンセプトは今日のミニバンの源流ともいえるものだった。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第19回:『ハンドメイドの大衆車』スズキ・フロンテ800(1965〜69)(その4)
その後1967年3月にもごく小規模の変更が加えられたのち、1969年4月に生産中止されるまで細々と作り続けられたわけだが、スズキとてその間まるきり手をこまねいていたわけではない。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第18回:『ハンドメイドの大衆車』スズキ・フロンテ800(1965〜69)(その3)
当初のバリエーションは「スタンダード」と「デラックス」の2種で、価格は前者が46万5000円、後者が54万 5000円。「フロンテ800」よりわずかに早い1965年11月に発売された「三菱コルト800」(偶然ながらこちらもエンジンは水冷2ストローク3気筒、ただし駆動方式はコンベンショナルなFR)が「スタンダード」44万8000円、「デラックス」49万5000円だったことを考えると、ユニークな成り立ち…
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第17回:『ハンドメイドの大衆車』スズキ・フロンテ800(1965〜69)(その2)
見た目はごく普通の2ドアノッチバック・セダンだったが、中身に関していえば、「フロンテ800」は当時の国産車中にあってなかなかユニークな存在だった。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第16回:『ハンドメイドの大衆車』スズキ・フロンテ800(1965〜69)(その1)
1965年にスズキ初の小型乗用車として発売された「フロンテ800」は、国産初の小型FFサルーンでもあった。その生産台数は、約3年半の間にわずか2717台。ほとんど手作りで細々と生産されたのだった。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第15回:「大誤算」三菱トレディア/コルディア(1982〜88/87)(最終回)
かくして「トレディア/コルディア」は一代限りで消滅してしまったわけだが、最初からマーケットが限定されているスペシャルティカーであるコルディアはともかくとして、トレディアのようにメーカーラインナップの中核を担うはずのセダンがこれだけ不振を極めた例は、めったにあるものではない。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第14回:「大誤算」三菱トレディア/コルディア(1982〜88/87)(その3)
三菱の期待を担って発売された「トレディア/コルディア」だが、国内市場におけるセールスはまったく奮わなかった。とくにひどかったのはトレディアで、デビューした1982年の販売台数はたった1万5500台強。