第60回:世界を駆けた六連星
WRCに挑んだ日本メーカーとスバルの栄光
2019.10.17
自動車ヒストリー
公道や、時には荒野でタイムを競い合い、トップドライバーの豪快な走りで観衆を魅了するラリー。この競技は日本メーカーにとって縁の深いものであり、世界ラリー選手権(WRC)のスバル3連覇によって最盛期を迎えた。1957年に始まった挑戦の歴史を振り返る。
圧倒的な知名度を誇ったサファリラリー
1963年の第1回日本グランプリは、自動車レースを一気にメジャーなものにした。サーキットで勝利を得ることが販売促進にもつながることがわかり、各メーカーが本腰を入れてマシンを開発するようになったからだ。ただ、日本の自動車会社がモータースポーツに取り組んだのは、これが初めてではない。最初の舞台はサーキットではなく、広大な大地だった。
1957年、トヨタは「クラウン」をオーストラリアに持ち込んだ。全長1万7000kmの過酷な豪州一周ラリーに出場し、完走する。翌年、今度は日産が「ダットサン210」で同じラリーに参戦。クラス優勝を果たした。耐久性の高さを広くアピールするためには、ラリーで好成績をあげることが効果的であると考えたのだ。
日産は1963年からアフリカのサファリラリーに出場し、1970年に「ブルーバード510」で総合優勝。翌年も「フェアレディ240Z」で連勝を遂げる。日産の活躍は大きな話題となり、『栄光への5000キロ』という映画まで作られた。これを見て、他のメーカーもサファリラリーへの参戦を始める。まずは、三菱が「ランサー」で1974年に優勝。1984年には「トヨタ・セリカ」が初参戦でいきなり優勝し、1986年まで3連覇を果たす。その後もサファリでは日本車が強みを見せ続けた。
サファリラリーは1953年に始まった長い歴史を持つ大会で、ラリー・モンテカルロ、RACラリーとともに世界3大ラリーと呼ばれている。ただ、ヨーロッパで行われている競技と比べると、さまざまな面で異なる特徴があった。コースの中には砂漠地帯が広がり、豪雨に見舞われると一転して泥の中を進まなければならなくなる。野生動物の生息地でもあるため、アニマルガードは必須のパーツだ。
グループAで輝きを放った日本車
国際自動車連盟(FIA)は、1973年から世界各国で独立して行われていたラリーを統合する。これが世界ラリー選手権(WRC)で、各国で行われたラリーイベントの成績によって年間チャンピオンが決められるようになった。最初はマシンの製造メーカーが競うマニュファクチャラーズタイトルだけだったが、1979年からはドライバーズタイトルも設けられた。
各大会で得たポイントの合計で順位が決まるので、それぞれの国の流儀で開催されてきたラリーも、次第に規格化されていく。ところが、サファリラリーのように特殊な要素を持つイベントは規格に収まりきらないところがあり、2002年を最後にWRCのカレンダーから外されてしまった。
WRCが始まってからも、最初のうちは個々の大会に対するスポット参戦が可能で、年間タイトルには関心のない日本メーカーもサファリラリーへの挑戦を続けていた。様相が変わったのは、1987年に車両規定が変わってからだ。それまでWRCのトップカテゴリーだったグループBでは、連続する12カ月で200台を製造すればホモロゲーションが得られることになっていた。その結果、ほとんどプロトタイプと化した競技車両によって、異次元の戦いが繰り広げられた。行き過ぎたハイパワー化で悲惨な事故が発生し、1987年からはより市販車に近いグループA規定が適用されることになる。
グループB時代には影の薄かった日本メーカーも、規定変更を受けて新たな挑戦を始める。中でもトヨタの動きは早かった。年間5000台の生産を必要とするグループAのカテゴリーにぴったり適合する「セリカGT-FOUR」を持っていたからだ。1989年にはチームにカルロス・サインツが加わり、ユハ・カンクネンとともに強力なドライバー体制を築く。翌1990年にはサインツがドライバーズチャンピオンに輝き、トヨタにWRC初のタイトルをもたらした。
1993年、トヨタは念願のマニュファクチャラーズタイトルを獲得する。これが日本のメーカーとしては初のWRC制覇だった。トヨタは翌年もWRCを制し、ドライバー部門でも1993年、1994年とトヨタのドライバーがタイトルを獲得。WRCでの日本車の存在感は強まり、世界の強豪として認められるようになる。このころになると、ライバルはヨーロッパ車ではなくなり、日本車同士がしのぎを削る状況が生まれていた。当時、ラリーで活躍していたもう一つの日本車メーカーが、富士重工業(スバル)である。
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画期的だった「レオーネ4WD」
スバルによる海外でのモータースポーツ参戦の歴史を振り返ると、第1回日本グランプリに「スバル360」で出場したテストドライバーの小関典幸が、1970年にメキシコで行われているバハ500にプライベート参戦している。メーカーとしては1973年にオーストラリアのサザンクロスラリー、1977年にロンドン〜シドニーマラソンに出場。そして1980年、いよいよサファリラリーに初挑戦した。
日本メーカーの中でも遅れての参加だったが、そこには画期的な意義があった。走ったのは「レオーネ4WD」だったのである。FRが常識だったラリーの世界に、乗用車型4WDを持ち込んだのだ。アウディがクワトロを投入するのは1981年であり、それより1年早いデビューだった。
レオーネは「スバル1000」から発展した「スバルff1」の後継車にあたる。スバルは東北電力からの要望で、1971年にこのクルマを4WD化したモデルを試作。水平対向エンジンと4WDを組み合わせたスバル独自のシステムは、この時に生まれている。レオーネは商用車のエステートバンに4WDを採用し、1975年からはセダンにも4WDモデルを追加した。4WD乗用車のジャンルで、世界に先駆けたのだ。
ラリーへの挑戦は、4WDモデルのポテンシャルをはっきりと見せつけた。レオーネのエンジンは決して高出力ではなかったが、4WDのトラクションのよさのおかげで走りやすく、いきなりクラス優勝を遂げる。スバルはその後もレオーネでの参戦を続け、実績を重ねていった。
経営危機を乗り越えて勝利をつかむ
スバルがWRCへの本格的なチャレンジを始めたのは、「レガシィ」がラインナップに加わってからである。新型の水平対向エンジンを搭載し、4WDのシステムを磨き上げたモデルで、スバルの技術力を世に知らしめたのがレガシィだった。販売開始前に10万km連続走行スピード記録のトライアルを行い、223.345km/hの世界記録を樹立している。WRCでも、この性能が十分に発揮されると期待された。
1990年のサファリがデビュー戦である。6台が出場し、総合6位が最高成績だった。この年、スバルは5つのラリーに出て、最高順位は1000湖ラリーの4位にとどまっている。マニュファクチャラーズタイトルを取ったのはランチアである。「デルタ インテグラーレ」の戦闘力が高く、トヨタ・セリカGT-FOURが競り合っていた。レガシィには時間が必要だった。
しかし、悠長に構えていられるような状況ではなかった。富士重工は赤字を抱えており、経営危機が報じられていたのである。巨額な資金を必要とするWRCへの参加は、真っ先に切り捨てられてもおかしくなかった。活動継続の力となったのは、世界中のスバルディーラーから集められたWRC援助金である。スバルのスポーツディビジョンであるSTIがチューニングしたモデルを販売し、利益の一部をWRCの活動資金に充てたのだ。WRCで好成績をあげれば、販売成績も向上する。どちらにもメリットのあるシステムだった。
1993年のニュージーランドラリーで、レガシィは念願の初優勝を果たす。そして満を持して投入されたのが、ラリーでの勝利を意識して開発された「インプレッサ」だ。デビュー戦の1000湖ラリーではアリ・バタネンのドライブでいきなり2位を獲得し、ポテンシャルの高さを見せつけた。インプレッサはレガシィよりも一回り小さいボディーで軽量化を実現し、ホイールベースを短くしてハンドリング性能を高めていた。
サインツ、マクレーのコンビで勝利を重ねる
1994年、スバルチームにカルロス・サインツが加入した。コリン・マクレーとのコンビで、チャンピオンを狙う体制が整ったのである。サインツは初戦のモンテカルロで3位に入り、優れた適応能力を見せつけた。アクロポリスラリーでインプレッサに初勝利をもたらした彼は、年間ドライバーズランキングで2位に。マニュファクチャラーズタイトルでもスバルは2位となり、世界制覇が近いことを予感させたのである。
1995年のシーズンは、モンテカルロでのサインツ圧勝で幕を開けた。幸先のいいスタートだったが、次戦のスウェーデンでは全車エンジンブローという最悪の結果が待っていた。この年からエンジン性能を制限するエアリストリクターの内径が38mmから34mmに縮小されており、それに対応したパーツの軽量化が耐久性に問題を生じさせていたのだ。
スバルの不運をしり目に、スウェーデンで1位、2位を占めたのが三菱である。「ランサーエボリューション」の成熟を進めてきた三菱は、WRCの有力チームとして急速に力をつけつつあった。
一方、急ごしらえの対策パーツに不安を抱えたまま戦い続けることになったスバルだが、エンジニアの努力のかいもあって、その後同様のトラブルは発生しなかった。ラスト2戦は3位までをインプレッサが占めるというパーフェクトな勝利を収め、スバルはマニュファクチャラーズタイトルを獲得。ドライバー部門でもマクレー1位、サインツ2位という結果で、スバルはダブルタイトルに輝いた。
その後も1996年、1997年とマニュファクチャラーズタイトルを制するなど、スバルは好成績をあげ続ける。一方、ドライバーズタイトルは三菱のトミ・マキネンが1996年から4連覇。1998年にはトヨタも復帰し、WRCにおける日本メーカーの戦いは最盛期を迎えた。その過程でスバルの名声は揺るぎないものになり、六連星はラリーファンの目に焼き付けられた。
現在のスバルは、小規模ながら独自のメカニズムを持つ自動車会社として世界中から認められる存在となっている。今日におけるスバルの人気は、WRCでの水際立った活躍によって確立したのだ。
(文=webCG/写真=FCA、トヨタ自動車、スバル、STI、三菱自動車、ルノー/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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