第77回:1976年 F1日本上陸
ドラマを生んだ雨の富士スピードウェイ
2020.06.18
自動車ヒストリー
1976年10月、極東の島国・日本でついにF1世界選手権が開かれる。欧州から遠く離れたこの地でF1が開催されるに至った経緯とは? スポット参戦した日本勢はどのような戦いを見せたのか? 雨の富士スピードウェイで行われたシーズン最終戦のドラマを振り返る。
日本からは遠かったF1誕生
F1が始まったのは1950年である。グランプリレースは1906年から行われていたが、それぞれの国や地域で別個に開催されていた。第2次世界大戦が終わると統一の機運が高まり、FIA(国際自動車連盟)によって世界を転戦してチャンピオンを決める選手権シリーズが定められた。“F”とは「規格」を意味する「formula(フォーミュラ)」の頭文字で、F1とはすなわち最上位のカテゴリーを意味する。初年度はシルバーストーンのイギリスGPからモンツァのイタリアGPまで7戦が行われ、アルファ・ロメオのジュゼッペ・ファリーナが初代チャンピオンに輝いた。
ヨーロッパではF1が熱狂的に迎えられたが、当時の日本ではほとんど話題になっていない。この年、朝鮮戦争が始まって自動車メーカーは軍需用トラックの生産で活況を呈する。日本の自動車生産台数は6万7100台で、そのうち乗用車は1683台にすぎなかった。日本人にとって自動車は何よりも実用的な運搬手段であり、レースに関心を持つ余裕はなかったのである。
1962年に鈴鹿サーキットが完成し、翌年には第1回日本グランプリが開催される。日本初の本格的な四輪自動車レースだったが、参加者も観客も手探り状態。普段乗っている市販車をそのままサーキットに持ち込むドライバーもいたほどで、メーカーもレース部門が整備されていなかった。それでも、国際スポーツカーレースに参戦したロータスやフェラーリの走りが観客を魅了する。最新のスポーツカーを目の当たりにし、日本でもモータースポーツへの関心が高まっていった。
1964年にはホンダがF1に参戦。翌年のメキシコGPで初優勝を果たし、ようやく日本でもF1の名が知られるようになっていく。生沢 徹がイギリスF3で好成績を挙げ、F1へのステップアップが期待された。しかしホンダは1968年でF1活動を休止。日本人F1ドライバー誕生の夢は遠のいてしまった。
日本グランプリはプロトタイプレーシングカーのレースとして続けられ、トヨタと日産の対決で盛り上がりを見せた。排ガス問題の影響で1970年の開催が中止になると、今度は富士グランチャンピオンレース(グラチャン)が人気となる。長谷見昌弘、星野一義、高原敬武らの高速バトルが観客を熱狂させた。
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自動車大国となってF1開催へ
日本のレース環境が独自の発展を遂げる一方で、F1へのアプローチも始まっていた。1974年3月、イギリスで新チームによるF1参戦の発表イベントが行われる。白地に赤い日の丸を配したマシンは、「マキF101」と名付けられていた。日本のプライベートチームがコンストラクターとしてF1に挑戦するというのである。当時はコスワースDFVエンジンの全盛期で、800万円ほどでそれを購入すればマシンを仕立ててレースに参加することができた。マキはイギリスGPからエントリーしたが、予選を突破できず本戦には出ていない。
同じ年、高原敬武がシルバーストーンで行われたデイリー・エキスプレス・インターナショナル・トロフィーに、F1マシンの「マーチ741」で参戦する。このレースはF1とF5000が混走するもので選手権はかかっていなかったが、高原は日本人初の“F1マシンでレースを戦ったドライバー”となった。
自動車大国となりつつあった日本に、FIAも興味を示して開催を働きかける。1974年の11月に行われたグラチャン最終戦では、富士スピードウェイを初めてF1マシンが走った。エマーソン・フィッティパルディら5人のドライバーが来日し、マクラーレンやロータスなどのマシンで模擬レースを披露したのである。世界最高峰の走りは観客を魅了した。
富士スピードウェイがF1開催にふさわしいサーキットであることも確認され、ついに1976年に日本初のF1が行われることが決まった。この年、日本では輸出額で自動車が鉄鋼を抜いて第1位に。自動車生産台数は784万台に達し、そのうち371万台が輸出された。自動車保有台数は3000万台を突破し、日本のモータリゼーションは勢いを増していたのだ。
ただ、問題がひとつあった。1976年のレースカレンダーには、すでに全日本F2000選手権の最終戦が日本グランプリという名前で登録されていたのだ。窮余の策として、F1選手権イン・ジャパンという名前が採用される。10月24日決勝で、1976年の第16戦としてF1カレンダーに富士スピードウェイの名が記された。
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波乱を呼んだ雨の決勝レース
日本初開催のF1レースは1976年の最終戦となったが、同年のチャンピオン争いはそこまで持ち越された。このシーズンはフェラーリのニキ・ラウダが好調で、首位を独走していた。しかし第10戦のドイツGPで大クラッシュ。大やけどを負い、生死の境をさまよう。ラウダが欠場している間に浮上してきたのはマクラーレンのジェームス・ハントである。ラウダは事故からわずか6週間後のイタリアGPで奇跡的な復帰を果たすが、ハントはその間にオランダ、カナダ、東アメリカで優勝。ポイントを65点に伸ばし、68点のラウダと3点差で日本でのレースを迎えた。
決勝前日から富士スピードウェイには雨が降り始め、朝になると本降りになった。コース上には水たまりができ、ウオームアップ走行ではスピンアウトするマシンが続出する。霧も発生してコンディションはさらに悪化し、予定の午後1時半になってもレースを始められない。ドライバーからは中止を求める声も上がったが、午後3時にスタートすることに決まった。
2番手からダッシュを決めたハントが第1コーナーを制し、後続を引き離しにかかる。マシンの後方には激しく水煙が上がり、先頭のハント以外は視界を奪われたままで走らなくてはならなくなった。2周目に思わぬ事態が発生する。ラウダがピットに入り、マシンから降りたのだ。レースを続けるのは危険だと判断し、彼はリタイアを決めた。皮肉なことにその後天候は回復し、路面は乾き始める。
スピンやマシントラブルで脱落するドライバーが続出する中、最後まで走り切って優勝したのはポールポジションからクレバーな走りを見せたロータスのマリオ・アンドレッティだった。1位のまま周回を重ねていたハントは、タイヤの摩耗で終盤にピットインを強いられて順位を落とす。それでも3位入賞を果たした彼は、1ポイント差でワールドチャンピオンに輝いた。
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初舞台で日本人ドライバーが奮戦
華やかな戦いを繰り広げるスター選手たちの陰で、日本人ドライバーが苦闘していた。エントリーしたのは、高原敬武、長谷見昌弘、星野一義、桑島正美の4人。世界レベルでは無名な彼らが軽く見られたのは仕方がない。ティレルのジョディ・シェクターは、日本人に対して「抜かれたい方向を手で示してくれ。安全に抜いてやるから」と言い放った。
そんな外国勢に衝撃を与えたのが、予選初日の長谷見の走りだった。「コジマKE007」で4番手のタイムをたたき出し、アンドレッティの前に出たのだ。富士スペシャルとして熟成させたマシンで、長谷見はこの順位には満足していない。ポールポジションを狙う彼は、2日目も攻め続ける。しかし、最終コーナーを走行中に左フロントサスペンションが破損し、250km/h以上のスピードでクラッシュ。モノコックにもダメージを負ってしまったが、コジマのメカニックたちは2日間不眠不休でマシンをつくり直し、決勝に間に合わせた。
桑島は資金不足で出走できなかったが、長谷見10位、星野21位、高原24位のポジションからレースが始まった。KE007は修復されたとはいってもセッティングまでは時間がなく、調整の済んでいない車両は直線でも真っすぐ走れず、コーナーではひどいオーバーステアに見舞われた。それでも長谷見は完走し、メカニックの奮闘に応えた。
一方、序盤に速さを見せつけたのは星野である。勝手知ったる富士で鬼神の走りを見せ、10周目のヘアピンでシェクターをアウトからぶち抜いた。最新型の6輪ティレルのシェクターに対し、星野が乗るのは型落ちのティレルにスポーツカーノーズを取り付けた急造マシン。戦闘力不足を意地で補い、一時は3位を走行して喝采を浴びた。タイヤ交換を繰り返したあげく用意したホイールを使い切ってリタイアとなったが、世界に肩を並べる腕を持つことを証明したのだ。
翌年も富士でグランプリが開催されるが、事故で死傷者を出したこともあって日本でのF1開催は中断される。鈴鹿サーキットでF1が復活するのはバブル景気の1987年だ。ホンダエンジンの活躍と日本人ドライバーの登場もあって、F1人気は沸騰する。上陸から10年を経て、日本はF1に欠かせない国と認められるようになった。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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