第72回:地の果てまで駆ける“陸の巡洋艦”
トヨタ・ランドクルーザー世界を行く
2020.04.09
自動車ヒストリー
高い耐久性と悪路走破性が認められ、世界各地で活躍している「トヨタ・ランドクルーザー」。このクロスカントリーモデルはどのような経緯で誕生し、世界中で受け入れられるに至ったのか? 累計1000万台という販売台数を誇る、“陸の巡洋艦”の歴史を振り返る。
警察予備隊車両のプロトタイプとして誕生
2014年、トヨタは「ランドクルーザー“70”シリーズ」を復活させ、期間限定で販売した。1984年の「70系」発売から、30年を迎えたことを記念したものである。70系は日本では2004年に販売が終了していたが、圧倒的な悪路走破性と耐久性に対する評価は高く、海外では基本設計を変えないまま販売が続けられていた。日本では“ナナマル”の愛称で親しまれ、復活を待望していたファンは多い。発売後わずか1カ月で約3600台もの受注を集めた。
ランドクルーザーは約180の国と地域で販売され、中近東やアフリカ、オーストラリアなどでは不動の人気を得ている。2019年にはランドクルーザーシリーズ(「プラド」や「レクサスLX」「GX」を含む)のグローバル累計販売台数が1000万台を超えた。都会を離れて砂漠や山岳地に近づくにつれ、ランドクルーザーの存在感は高まっていく。過酷な環境になればなるほど、ランドクルーザーの価値がはっきりと見えてくるのだ。
ランドクルーザーの歴史は1951年にさかのぼる。前年に朝鮮戦争が始まり、アメリカは日本の治安維持に兵力を割く余裕がなくなっていた。そこでGHQは、日本に対して警察予備隊(後の自衛隊)を組織するよう要請する。発足にあたっては活動用の装備を整えねばならない。山野での移動や輸送のためには四輪駆動車が必要で、米軍および発足直後の警察予備隊はトヨタ、日産、三菱の3社にプロトタイプをつくるよう求めた。
当時、日本の自動車産業は戦争の痛手から立ち直る途上にあった。製品が制式採用され大量の受注が約束されることは、経営の安定につながる。トヨタは1947年に発売していた「SB型トラック」をベースに、わずか5カ月で試作車を完成させた。搭載されたエンジンは戦前型のB型を改良したものである。当初は「トヨタ・ジープ」と呼ばれていたが、これはアメリカの軍用車「ジープ」が四輪駆動オフロード車の代名詞となっていたからである。
3社のプロトタイプは性能面では甲乙つけがたかったが、交換部品の納入で有利な「三菱ジープ」が警察予備隊車両として採用された。三菱はジープの商標権を持つウィリス社とライセンス契約を結んだため、トヨタはジープの名称を使うことができなくなる。代わって付けられた名前が「BJ型」だ。B型エンジンとジープ(JEEP)の頭文字を組み合わせた名称だった。
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「ランドローバー」に対抗して付けられた車名
B型は4トントラック用に開発されたエンジンで、3.4リッターという大排気量の直列6気筒OHVである。BJ型には82馬力のハイチューン版が採用されていた。2.2リッター、60馬力の本家「ウィリス・ジープ」を大幅に上回るスペックである。イギリスのローバー社が1948年に発売した「ランドローバー」は1.6リッター、51馬力にすぎない。BJ型は走行試験で富士山に挑み、急坂を登って6合目まで到達するという快挙を達成した。
大排気量エンジンのメリットで、トランスファーにローレンジを設定する必要はなかった。極端に低い1速ギアを持つ4段マニュアルトランスミッションが採用され、最高速度も100km/hに達したという。シャシーはSB型トラックのラダーフレームに3本のクロスメンバーを加えて強化したもので、前後ともにリーフリジッド式サスペンションを用いていた。悪路走破性と耐久性を確保し、メンテナンス性に優れる簡素な仕組みである。
警察予備隊への納入は実現しなかったが、BJ型は国家地方警察や林野庁などの官公庁に採用された。ピックアップトラックや消防車などの要望にも対応し、さまざまなボディータイプが生産されている。政府と契約しなかったことが幸いし、自由な発想で開発を進めることができたのだ。
BJ型が納入されたのは官公庁や電力会社などだけだったが、一般向けの販売も視野に入っていたという。とはいえ、一般ユーザーに売る際に、単にBJ型と呼ぶのではあまりにも愛想がない。名称について出色のアイデアを提供したのが、当時技術部長の職にあった梅原半三だった。ライバルと目されたランドローバーに対抗する名前を考えようというのだ。Land Roverは直訳すれば「陸の放浪者」だが、梅原はこれを「山賊」と解釈した。山賊に負けないものとして考案されたのがLand Cruiser、「陸の巡洋艦」である。
ややこじつけ気味ではあったが、1954年からBJ型の正式名称はランドクルーザーになった。覚えやすく語呂のいい名前は評判がよく、短縮形の“ランクル”という名が広まっていった。
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洗練を身につけて一般ユーザーにも浸透
1955年、ランドクルーザーは「20系」と呼ばれるモデルに進化する。短くなったホイールベースによって旋回性能が向上し、スタイリングは丸みを帯びたものに変更。フロントグリルはクロームメッキの横バー3本になり、ヘッドランプはボディー埋め込みタイプになった。作業車の面影が強かったBJ型に比べ、はるかに洗練されたデザインである。
ホイールベースの短縮は乗り心地には悪条件となるはずだが、快適性はむしろ20系のほうが上である。BJ型ではフロント9枚、リア10枚だったリーフスプリングをそれぞれ4枚に変更し、スパンの長いパーツを用いることでネガを上回るメリットを得たのだ。エンジンの搭載位置を前に120mm動かすことで、室内長も200mm拡大。オプションでクーラーも設定され、一般ユーザーにとって魅力的なモデルとなった。
エンジンは初代のB型に加え、3.9リッターのF型も用意された。B型エンジン搭載モデルはBJ型、F型エンジン搭載モデルは「FJ型」と呼ばれる。F型エンジンはB型をベースにボアを拡大したもので、ピストンを軽合金にするなどの改良が加えられていた。出力は105馬力で、走行性能はさらに向上した。1956年になるとB型は製造中止となり、エンジンはF型に統一される。
20系が登場した1955年には、トヨタから初の本格的国産乗用車「クラウン」がデビューしている。国内での好評を受けて、トヨタはクラウンの対米輸出を試みる。しかし、アメリカのハイウェイで高速走行するにはまだ性能が足りておらず、早々に撤退することになった。アメリカで受け入れられたのはランドクルーザーである。1965年に「コロナ」の輸出が始まるまで、トヨタの海外向け主力車種はランドクルーザーだった。
ラグジュアリー性と環境性能が向上
ランドクルーザーはアメリカ以外にも進出する。ペルー、ベネズエラ、マレーシア、クウェートなどに輸出が始まり、ディーラー網が広げられていった。トヨタの海外進出の基盤は、ランドクルーザーによって整備されていったのである。1950年代の後半には、「ランドクルーザーは壊れない」という定説が世界中に広まっていた。1960年には「40系」が登場。品質が向上し、大量生産の体制が確立された。40系はロングセラーとなり、70系が登場する1984年まで生産されることになる。
長い販売期間の中で、市場は変化していった。北米ではレクリエーション需要が拡大し、より快適なモデルが求められるようになる。トヨタは40系から派生した「55型」のステーションワゴンを1967年に投入し、新たな路線を切り開いた。1980年にはさらにラグジュアリー性を高めた「60系」が登場する。以後「80系」「100系」「200系」へとつながっていくモデル群だ。
誕生から60年以上の歴史を経て、ランドクルーザーは洗練を身につけていく。サスペンションはリーフリジッドからコイル式の4輪独立懸架となり、快適性は乗用車と変わらないレベルになった。フルタイム4WDやエアサスペンションといった、その時々の先進テクノロジーを満載し、エンジンやパワートレインの進化で環境性能も向上する。充実した豪華装備が与えられた最新モデルは、プレミアムSUVのジャンルに属している。
誕生当初からは大きく変化したランドクルーザーだが、変わらないものもある。「命と荷物を載せて出掛け、安全に戻ってくる」という思想だ。揺るぎない信念が保たれている限り、ランドクルーザーは地の果てまで駆ける巡洋艦であり続ける。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。