エッセイ
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2006.9.30 エッセイ 大矢 アキオ
フィアット復活物語 第8章「秋は繁殖シーズン!? パリに集まるいろいろなパンダたち」(大矢アキオ)
■3つの燃料が使える「パンダ・ムルティエコ」9月30日から一般公開されるパリサロン。フィアット・グループのスターは、間違いなくアルファ・ロメオ8Cコンペティツィオーネ生産型であろう。いっぽうフィアット・ブランドそのものは、パンダのバリエーションで来場者の関心をひく作戦だ。まずはコンセプトカー「ムルティエコ」である。厚化粧したパンダにあらず。このクルマのミソは中身に…
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2006.9.23 エッセイ 大矢 アキオ
フィアット復活物語 第7章「有名人目白押し、これが最新イタリア版テレビCMだ!」(大矢アキオ)
■ハリソン・フォードと盆栽イタリアでフィアットの株価は、年初来最高値の更新を続けている。知り合いの関係者は、持っているフィアット株をいつ売却するかタイミングをうかがいながらも、「もうちょい」という欲が出るらしく、なかなか売れずに困っている。そんな好調に支えられて、テレビコマーシャルも今年に入って気合が入ってきた。今回は、そのお話である。そもそも経営危機に陥る…
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2006.9.19 エッセイ 小沢 コージ
第280回:新型トヨタ・アベンシス試乗
乗ってビックリの“二重人格性”(小沢コージ)■ドイツ流に仕上げても結局昔のコロナ?いや驚いちゃったよ、新型トヨタ・アベンシス。マイナーチェンジされたってんで、ちょいとワゴンを借りて乗ってみたんだけど、最初はあんまり感心しなかったのね。確かにマイナー前より、味がしっかりしていて、ヨーロッパ向けらしいダンピングの効いた走りを十二分に楽しめる。ドアの重さ、立て付けなども含め、全体の剛性感も増しているようだ。…
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2006.9.16 エッセイ 大矢 アキオ
フィアット復活物語 第6章「これがランチア日本上陸計画だ!」(大矢アキオ)
■ランチア創立100年祭の会場でランチアは、前回紹介したヴェネツィア映画祭のスポンサーに続き、2006年9月4-9日にはトリノで創立100年祭を催した。ランチアクラブ・イタリアの呼びかけで、世界18カ国から360台の歴代ランチアが結集した。5日目の金曜夜には、「ソワレー・ランチア」と題して、カルロ・ビスカレッティ自動車博物館が参加者に開放された。その場で筆者が話す機会を得たのは…
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第49回:『唯一無二』日野コンマース(1960-62)(その4)
新しいコンセプトのトランスポーターとして、1960年2月に発売された日野コンマース。だがそのセールスははかばかしくなかった。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第48回:『唯一無二』日野コンマース(1960-62)(その3)
1959年10月に発表され、東京・晴海で開かれた「第6回全日本自動車ショー(東京モーターショー)」でも注目を集めたコンマースは、翌60年2月に発売された。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第47回:『唯一無二』日野コンマース(1960-62)(その2)
多目的トランスポーター「コンマース」の開発は、1957 年に始められたという。当時はそれまでの三輪トラック(オート三輪)にかわって四輪トラックが小型トラックの主流となり始めた時期で、並行してそれをベースとするライトバンやパネルバンなどの需要も増えていた。そのいっぽうでは乗用車をベースとするライトバンも出現し始めていたが、トラックベース、乗用車ベースともにバンとし…
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第46回:『唯一無二』日野コンマース(1960-62)(その1)
積載量4トン以上の中型・大型トラック市場で、1973年以来32年連続でナンバーワンの座を占めている日野自動車。大型車のトップメーカーであるその日野が、かつては乗用車もラインナップしていたことはご存知の方もおられることだろう。では、そのいっぽうでこうした進歩的なモデルも存在していたことについてはいかがだろうか?
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第45回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その4)
1960年11月のトリノショーでワールドプレミアを果たしたクーペとコンバーチブル、2台のアレマーノ製プロトタイプは、翌61年に日本に上陸。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第44回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その3)
前回(その2)において、「スカイラインスポーツ」であるにもかかわらず、イタリアに送られたのが「初代グロリア」用ベアシャシーだったという記述に、疑問を持たれた方もいるのではないだろうか。その疑問に答えるためには、まずは初代スカイラインとグロリアの関係について説明する必要がある。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第43回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その2)
「スカイラインスポーツ」のプロジェクトは、1955年に欧米の自動車および航空機産業を視察旅行した、当時プリンスの取締役設計部長だった中川良一氏が、イタリアのカロッツェリアとそこでつくられるスポーツカーの美しさに感銘を受けたことに端を発したと言われている。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第42回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その1)
<設問>次の記述にあてはまる車種名を挙げよ。 1.日本で初めてイタリアン・デザインを導入したモデルは? 2.日本で初めてつくられた高級パーソナルカーは? 3.日本で初めてタコメーターや本革シートを標準装備したのは? 以上3つの質問に対する答えは、いずれも同じ車種。それが今回紹介する「プリンス・スカイラインスポーツ」なのである。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第41回:『小さな高級車』マツダ・キャロル(1962〜70)(最終回)
67年デビューのホンダN360に始まる軽のパワーウォーズからひとり取り残されてしまったキャロルだが、なぜマツダがこうした事態に陥るまで放置していたかといえば、社運を賭したロータリーエンジンとそれを搭載した上級車種の開発に忙しく、とても軽まで手が回らなかったというのが、おそらく実情だろう。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第40回:『小さな高級車』マツダ・キャロル(1962〜70)(その4)
67年3月、軽乗用車市場へは最後発となるホンダから、「N360」という素っ気ない車名を名乗るモデルが発売された。すでに前年秋の東京モーターショーでベールを脱ぎ、話題を呼んでいたこのN360こそが、それまで比較的安穏だった軽乗用車市場にブチ込まれた核弾頭だった。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第39回:『小さな高級車』マツダ・キャロル(1962〜70)(その3)
デビュー当初はモノグレードだったキャロルだが、好調なセールスを背景に次第に車種を拡大していく。 まず発売3カ月後の62年5月には、ツートーンカラーやサイドモール、ホワイトウォールタイヤなどで装った「デラックス」を追加。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第38回:『小さな高級車』マツダ・キャロル(1962〜70)(その2)
4ドアから2ドアに改められたものの、そのモノコックボディやリアに横置きされた水冷直4エンジンなど、キャロルの基本レイアウトはマツダ700から踏襲していた。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第37回:『小さな高級車』マツダ・キャロル(1962〜70)(その1)
ご存じのとおり、「マツダ・キャロル」は現在もラインナップされているカタログモデルである。 その現行車種をつかまえて「これっきり」呼ばわりするとは、失敬千万であると思われるかもしれない。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第36回:『偉大なる失敗作』ホンダ1300(1969〜1972)(最終回)
1970年に入り、クーペとオートマチックを追加したことによって販売台数が一気に上向いた「ホンダ1300」。結果的にはその勢いは半年ほどしか続かなかったが、11月には発表から約2年、発売から1年半を経たセダンにマイナーチェンジを実施した。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第35回:『偉大なる失敗作』ホンダ1300(1969〜1972)(その4)
1969年4月に発表された生産計画では、5月に生産を開始して3カ月後の8月には月産5000台、6カ月後の11月には月産1万台へもっていく予定とされていた。
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2006.9.13 エッセイ 田沼 哲
第34回:『偉大なる失敗作』ホンダ1300(1969〜1972)(その3)
1968年秋の第15回東京モーターショーの直前に発表され、ショーのハイライトとなった「ホンダ1300」。その時点では翌69年3月に価格を公表し、同月末ごろから発売予定と告知されたが、初の本格的な量産小型車とあって予想外に手間取ったようで、最終的な生産型の仕様と価格が公表されたのは、結局、発表から半年を経た69年4月中旬のことだった。
